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第89回 医師が患者になって見えた事
43歳の産婦人科医に右乳房のがんが発覚

第89回 医師が患者になって見えた事43歳の産婦人科医に右乳房のがんが発覚

産婦人科 専門医
山本 かおり/㊤

山本 かおり(やまもと・かおり)1977年長野県生まれ。2003年兵庫医科大学医学部卒業、信州大学医学部産科婦人科学教室入局。06年伊那中央病院、10年長野赤十字病院を経て、18年から複数の医療機関で嘱託医。

産婦人科の専門医として、2人の子どもを育てつつ、思春期からの女性を支援したいと、組織に所属しない働き方に辿り着いた。43歳で受診した人間ドックで、右乳房にがんが見つかった。

乳腺エコーで要精密検査に

常勤で長野赤十字病院(長野県長野市)に勤務していた頃は、毎年職場の健康診断を受けていた。30代で非常勤となり、複数の医療機関で兼務するようになった後は、夏に人間ドックを受けるのが常だった。新型コロナウイルス感染症の流行が始まった2020年は、夏の予約が取れず10月13日に受診した。

2日後、担当の看護師から電話があった。オプションで受けた乳腺超音波で右乳房に所見が認められ、精密検査が必要だという。1週間後にマンモグラフィ検査を受けると、乳がんの疑いはさらに濃厚になった。

県北部の中核病院である日赤は、いつも混み合っている。やっと次の乳腺外科の予約が取れたのは1カ月先、11月17日に組織を採取する細胞診の検査を受けた。10日後、「クラスⅤ」(悪性と断定できる異形細胞が存在)という結果を突き付けられた。乳がんの宣告だったが、なお平常心を保っていた。何ら自覚症状はなく、がんの家族歴もなかった。喫煙歴もなく、リスクがあったとしたら、飲酒ぐらいだろう……思いを巡らせた。CT、MRIの検査でも異常はなく、「がんと言っても、かなり初期のはず」と、楽観的だった。

それよりショックだったのが、治療の一環として、女性ホルモン(エストロゲン)を抑制しなくてはならなくなることだった。産婦人科医としてホルモンの重要性を熟知しており、更年期障害に悩む患者も数多く診療してきた。

小児科志望から産婦人科医師に

山本は1977年、長野市の城下町、松代町で生を受けた。両親は旅行業を営んでいた。活発な子で学業成績も良かったが、高校受験で確実視されていた地元の進学校、県立屋代高校には不合格になってしまった。2次募集も検討したが、翌年の再受験に懸けた。当時の長野県では中学浪人は珍しくなく、そのための予備校もあった。理系科目が得意だったが、将来の希望は漠然としていた。予備校の約40人のクラスは女子が12人、医学部を目指している子も何人かいた。山本には1歳下の弟がいる。小児期に神経芽腫を発症したが、抗がん剤が奏功して普通の生活を送れるまでになっていた。弟の同級生には小学校時代に白血病で命を落とした子もいた。「自分は受験で回り道をしたのだから、子どもたちを救う小児科医になろう」。15歳で明確な目標が定まった。

1年遅れで屋代高校に入り、兵庫医科大学に進んだ。5年生で実習が始まると、産婦人科が面白くなり、剣道部の先輩からも勧められた。医学部卒業後は、郷里の長野に帰るつもりだった。6年生の夏に佐久総合病院(長野県佐久市)で1週間産婦人科の研修を受けて意志を固め、03年に卒業すると、信州大学(松本市)の産婦人科に入局した。各科を巡回する初期臨床研修制度が開始される前年で、同期は8人いたが、3年間は下の医師が入ってこない。十分な休息も取れず、身を粉にして働いた。幸せな出産に立ち会うばかりではなかったが、内科と外科の要素を兼ね備え、トータルに女性の健康を支援する産婦人科は、山本の性格に合っていた。

06年秋から、伊那中央病院(伊那市)に派遣された。当地で知り合った金融マンと結婚し、長男を出産した。同院では女性医師の出産は初めてだった。1年間の休みを取ってよいと言われたが、研修が遅れる焦りから、5カ月で職場復帰した。幸い、地元で子育てをサポートしてくれる人が見つかり、伸び伸び修行を積んだ。夫の勤務先の協力も得られ、伊那には少し長居ができた。10年から、長野市勤務となった夫に伴い山本も長野赤十字病院に異動し、12年に次男を出産。専門医資格を取得した後で、心にも精神的に余裕が生まれていた。病院が人手不足とのことで、7カ月後、週3回の勤務で復帰し、分娩も手術もこなしていた。

子宮全摘の経験を診療に生かす

実は、山本には婦人科の持病があり、中学生頃から月経痛に苦しんでいた。母は鎮痛薬を買ってくれたが、当時は産婦人科に行こうという発想はなかった。山本が初めて婦人科にかかったのは21歳、不正出血を診てもらうためだ。

「思春期の子のつらさを受け止められるよう、産婦人科の敷居を下げられないか」と模索した。日赤の勤務は週1日にして、土曜は市内の婦人科クリニック、他の曜日は、婦人科にかかる機会の少ない地域の病院で1日ずつ……と、多様な働き方を選択した。

2回の妊娠・出産ともスムーズだったが、出産後も月経困難が続き、次男の授乳を終えた後から低用量ピルを服用し始めた。数カ月おきに休薬すると、また過多月経に見舞われた。仕事にも障ると、総合病院の婦人科を受診し、子宮筋腫と診断を受けた。40歳を迎え、もはや出産は望まないと、子宮全摘手術に踏み切ることにした。卵巣は残るのでホルモンバランスが崩れることはないし、婦人科のがんになるリスクも大幅に低減する。

腹腔鏡下だが、生まれて初めて受ける手術だった。ピル服用中は月経も月経前症候群(PMS)もなかったが、子宮を摘出した後にPMSが出てきたことは驚きだった。黄体ホルモン製剤を追加して排卵を止めるとPMSの症状も消失した。産婦人科医として、子宮摘出の経験もその後の経過も、診療に行かせる知見となった。それから3年後に発覚した乳がんは、ホルモン依存性のがんで、自身が専門とする産婦人科領域とも関連している。山本は、そのまま長野日赤で手術を受けるつもりだった。共に女性患者を診る乳腺外科と接点は多く、主治医となった浜善久にも信頼を寄せていた。

県外に単身赴任中の夫に、がんが見つかったことを伝えると、動揺を隠せないようだった。山本を案じて、10日でも2週間でも入院するよう勧められた。山本は、せいぜい1週間の入院だろうと考えていた。2人の息子たちは小学2年と中学1年で、まだ手がかかる。複数の勤務先の出勤の調整もあり、年末年始の休みを控えた12月24日に手術をしてもらうことになった。

幼児期に小児がんを患った弟は、一時回復したものの、抗がん剤の副作用で、大学卒業直後に心筋症から脳梗塞を発症し、障害が残った。70代の両親は、自宅で弟と暮らしている。山本は、余計な心配をかけないよう慮り、自分の病気のことは知らせなかった。

12月23日に入院、手術はクリスマスイブだ。1cm未満の小さながんで、センチネルリンパ節の迅速診断でがん細胞は確認されず、リンパ節郭清はしなかった。部分切除のため切開創は最小限で、痛みも抑えられていた。患部のドレーン抜去まで1週間と言われていたが、29日には抜けて30日に退院できた。年明けから始まる放射線治療や服薬を考えると少し憂鬱だったが、家族4人揃って、自宅で正月休みを過ごした。その2年後、もう1つの試練が待ち受けていることは、この時は予想だにしなかった。(敬称略)

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