西田 俊朗(にしだ・としろう)
独立行政法人地域医療機能推進機構 大阪病院 病院長
留学先: Tufts University, School of Medicine(1990年2月〜92年1月)
ボストンへ
虚血肝細胞傷害の研究で大阪大学大学院の博士課程を終え、一般病院で臨床力を磨きながら海外留学先を捜していた。十数通の手紙をCV(履歴書)と共に送ったが、条件が合わず中々決まらない。
そんな時、往時熊本大学におられた井上正康先生から研究の恩師である田川邦夫先生に、「Tufts大学のIrwin M. Arias先生(Department Chairman、雑誌『Hepatology』創設編集長)が、肝臓のビリルビンや胆汁酸の輸送を研究するポスドクを探している」という話が入った。当時は今のようにEメールやWEB面談ができる訳ではなくAir Mailのやりとりで、数カ月後の1990年1月末にはローガン空港に向かっていた。
当時も今も飛行機は必ずしも定時運行ではない。私の2回目の海外渡航であるボストン行きも同じであった。乗り継ぎのニューヨークJFK空港でボストンへの乗り換えカウンターに行くと「ボストン行きはキャンセルだ。ラガーディアに行け」といきなり言われた。片言の英語で交渉するも取り合って貰えず、ラガーディア空港に向かうバスに飛び乗った。初日からボストン行きの便に間に合うかハラハラする想いで移動した。幸い数時間遅れで、その日のうちにローガン空港に着いたが、緊張のせいかボストンが無性に寒く感じられた。
空港には順天堂大学からArias先生のもとに先に留学されていた北村庸雄先生が迎えに来てくれていた。今と違い携帯電話もメールもない時代で、飛行機が遅れても連絡の取りようがない。「いや、掲示板を見て解りましたから」と北村先生らしく淡々と言ってはくれたが、到着早々大変なご迷惑をおかけした。ストロードライブを走る暖かい車の中で、北村先生に「今年のボストンは異常な暖冬でチャールズ川が凍っていないんです」と言われた時は、改めて背筋が寒くなった。
ボストンにて
ボストンでの最初の数カ月は単身生活だった。家族が一緒に住めるアパートを探し、季節が良くなってから妻と子供3人を迎えた。リスや大樹の緑に囲まれた市内は自然豊かでのびのびとしており、同時に歴史も感じられるグレーターボストンを子供達は気に入っていた。学校も思い出深く、今でもボストンなら是非もう一度行きたいと言う。
ただ、バブルの最中に家を買い留学したこともあり、NIHのグラントで雇われた研究員の生活は、物価高のボストンでは苦しかった。少し成果が出た時にArias先生に何とかならないかと相談したら、奨学金を取るように勧められた。彼の推薦もあり、AASLDのPostdoctoral Research Fellowship Awardを受賞でき、人生で初めてBlack Tie Partyに参加した。無論、衣装は全て借り物である。
ラボでの研究は中々思うようには進まない。幸い言われていた研究とは別に自分の考えでやった胆汁酸の仕事がまとまり論文化できた。Arias先生の所へ持って行くと、サッと目を通し、「Toshi(私の呼び名)、文法は合ってる。でも英語はこうは書かない。リズムが大事なんだ」と言い、唱うように呟きながら、目の前で全部書き換えられた。2週間ほどで『PNAS』に投稿され、暫くしてコミュニケーターからレビューアーを含むコメントが帰ってきた。Minor RevisionでArias先生に今持っているデータで十分答えられると告げた。その場でデータを見ながらArias先生はコミュニケーターに電話をかけ説明し、3分後には、「Toshi, Accepted, Congratulation!」と言った。私には何がどうなっているか皆目見当がつかなかった。
アメリカ留学中にはラボ仲間(写真①)と共に幾つか論文を書いた。ただ、Arias先生に「やってくれ」と言われ、Research Meetingで同じ学科のLewis C. Cantley教授から、「できるよ」と言われた細胆管のビリルビントランスポーターのクローニングはできなかった。帰国後、数年して別の研究グループが『Science』誌に発表していた。外科医の私には少し荷が重かった。
留学先のラボには大きな機械は余りなく、何かを使う時には同じ学科の他のラボや他の学科によく機械を借りにいった。何処もメインテナンスがよくできており、彼らの研究を邪魔せずルールを守る限り、皆大らかに貸してくれたのは有り難かった。太々しかったのは、自分のラボには旧いIBMのコンピューターしかなかったため、同じ学科のCantley教授に頼んで、最新のMacを使わせて貰いデータ解析と論文作成をしたことだった。早くて綺麗だった! しかし、厚かましい限りである。
アメリカで研究を始めて印象的だったのは、「研究費で買ったものは、皆で最大限使い成果を目指す」「成果を出すためには競争相手であっても必要であれば手を組む」「研究は何が一番大切か、何を求められているか、全体像をよく考えて計画し、やるとなったら全力で迅速に行う」ということだった。そしてアメリカは当時からワークライフ・バランスを大切にしており、週末は確実に休みであった。更にParent-teacher Dayだと言うと、ラボに来なくていい、子供のために学校に行けと言われた。無論、トップを走るリーダーは、週末も別のラボで熱心に研究をしてはいたが。
再会
92年に帰国後、臨床の道に戻った私は、肝臓の物質輸送とは別の研究をすることになった。Cantley教授やArias先生の奥さんのLyubaとは同じがん領域を専門にしていたので、シカゴのASCOや他の国際学会で、時に会った。しかし、Arias先生と会う機会はなかった。
新型コロナウイルス感染症の流行が少し治まった昨年春、井上先生から携帯に電話がかかってきた。「Ariasが来るんだけど、何処かで講演をしたいと言ってるんだ」。
2023年5月29日、30年ぶりに大阪公立大学医学部の講堂で96歳のArias先生と会うことができた(写真②③)。NIH Vice AdvisorのArias先生は、生き生きと最近の研究の話をした。驚いたのは、彼がつい最近まで現役で研究をやっており、私が帰国後書いた論文以上にインパクトの高い仕事をしていたことである。
1年後の今年、Arias先生がメールをくれた。その中で「I can work at NIH as an Emeritus Senior Scientist forever BECAUSE THEY MADE ME A CONTRACTOR rather than a conventional NIH employee. As long as NIH renews my contract mainly to run Demystifying Medicine and a few other activities, I am here until the final curtain! Win」と言ってきた。私は彼に、「“To keep activities until the final curtain”, and I wish that for me, too. Toshi」と返した。
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