宮本 隆司(みやもと・たかし)
社会福祉法人児玉新生会児玉経堂病院 病院長
留学先: ドイツ小児心臓センター(2003年4月〜05年9月)
2度の国内留学がきっかけで海外留学へ
私の留学体験は2回の国内留学から始まりました。大分医科大学(当時)の第2外科で修練を積んでいた卒後3年目の夏、福岡市立こども病院心臓血管外科で欠員が出て半年間の出向を命じられました。当時、小児心臓外科では“ド素人”の私でしたが、角秀秋先生他3名の先生の賢明な指導により、半年後には心房中隔欠損症の執刀医を任せられるまでになりました。大分に戻り小児心臓外科施設の開設を目指しましたが、望みは薄いと見切りを付け、医局を出る事を決意しました。東京の国立小児病院(当時)心臓血管外科に2度目の国内留学をする事になり、レジデント3年目に東京大学医学部胸部外科への入局を勧められ東大に編入しました。高本眞一教授の取り計らいで学位研究継続の許可を頂き、大分大学から学位を受ける事が出来ました。
東大への編入後、小児の心臓外科手術を海外で学びたいと考え始めていた頃、日本で開催された学会で、ドイツのバードユーンハウゼン心臓病・糖尿病センターで活躍されていた南和友先生にお会いしました。先生はドイツと日本の臨床症例経験の違いを強調され、ドイツへの留学を勧められました。その直後に発表されたミュンスター大学からの胎児手術に関する論文に興味を持ち、著者のThomas Kohl先生宛に「研究に参画させて欲しい」とメールを送りました。国際会議が開催されていたトロントで面接を受ける事になり、同僚のBoulos Asfour先生をご紹介頂き、その場で翌年から無給フェローとして彼のチームで研究する事が決定しました。
紆余曲折の末ドイツへ留学
帰国して直ぐにドイツ語のプライベートレッスンを始め、妻と留学予定地のミュンスターに視察にも行きました。ところが、Asfour先生がミュンスター大学からボン近郊のドイツ小児心臓センター(Deutsche Kinderherzzentrum:DKHZ)へ異動する事になり、同時に私の留学受け入れが白紙になったとの報せが届きました。DKHZは2001年に新設された小児専門の心臓病センターで、Asfour先生は新しいチームを立ち上げる為に招請されたのでした。それならばDKHZへ留学出来ないかと考え直し、Asfour先生に懇願すると、半年後にフェローのポストを確保すると約束して下さりました。
ベートーベンが生まれたボン市は人口およそ30万人の小さな街で、中心地にはバロック様式の居城があり、その優雅な建築物と荘厳な庭園に感動しました。05年3月にドイツに渡り、住居を始め子供の学校やドイツ語講師の手配からビザの申請迄、丸3カ月間は生活周りの構築に奔走しました。
4月になり、病院勤務初日の早朝カンファレンスで、施設長であり責任者のA. E. Urban先生と対面した時の緊張感は今でも鮮明に覚えています。Urban先生はドイツの新生児心臓外科手術の第一人者で、特に大血管転位症の手術では400例以上の実績を持つ名医です。しかし、とても厳しくドイツ語が話せない外国人フェローを好まず、助手になるにはドイツ語の習得が必須でした。一方、私のボスのAsfour先生は米国のボストン留学経験がある為流暢な英語を話し、私の相棒となったJoachim Photiadis先生もオーストラリア留学の経験があった為、3人での手術時は殆ど英語で行われました。
研究と臨床の修練を同時に積む
私の留学の目的は、胎児手術の研究と小児心臓外科の臨床を同時に修練する事でした。研究に関してはミュンスター大学で半年間、ボン大学で1年間、妊娠ヒツジを用いた実験を行いました。妊娠ヒツジの腹部と子宮を切開して胎仔の背部に欠損を作成し、一旦閉腹して後日子宮内視鏡を用いて胎仔のパッチ閉鎖手術を行うという内容でした。当時日本では子宮内視鏡手術は行われていませんでしたが、ボン大学では既に臨床でも実施されており、より精度を高める為の実験でした。
臨床については、1年目に第2助手、2年目に第1助手、3年目に執刀医というカリキュラムでした。ドイツ語に悪戦苦闘しながら日々の研鑽を積み、留学半年後には可能な限りドイツ語のみで日常生活と診療を行うように心掛けました。その結果、2年目からは月1000ユーロの給与を出して頂ける事になりました。それでも家計は苦しい事に変わりはありませんでしたが、その状況を一変させたのは、一時医師活動許可(通称Berufserlaubnis:BÄO)の取得でした。事務室に呼ばれ、翌年から心臓血管外科スタッフとして契約する事が告げられました。給料は月5000ユーロにアップし、生活は一気に楽になりました。
日本でも多くの小児心臓手術を経験していましたが、スピードの速さと正確さには驚嘆しました。Asfour先生のNorwood手術やUrban先生のJatene手術は大変勉強になり、色々と質問をして知識を習得しました。BÄOを取得してからはUrban先生から助手の許可も下り、活動の場が広がり充実した臨床留学になりました。N. Sinzobahamvy先生のサポートで、1年間で3編(2編が第一著者) の論文を執筆する事も出来ました。
感動的な心臓移植手術の助手経験
フランクフルトから北へ70km程の位置にあるギーセン大学附属病院の小児心臓移植手術は世界的に有名で、欧州各地や日本からも患児が訪れます。日本では15歳以下の小児の心臓移植手術は実施困難で、海外での移植が必要でした。留学中に心臓移植を見学したいと希望を出していましたが、DKHZでは実施しておらず途方に暮れていたところ、麻酔科部長のC. Fink先生から「これからギーセン大学で心臓移植手術が実施されるから見に来ないか」と電話がありました。時間は夜10時、ボンからギーセンまでは車で2時間程の距離でした。急いで身仕度をして現地へ向かい、ギーセンに到着した時には25時を回っていました。手術室に案内されて麻酔科医に面会すると、あと2時間程でドナー心臓が到着するので暫く休憩室で待つようにと言われ、仮眠を取らせて貰いました。2時間後、移植を受ける2歳の拡張型心筋症の男児が手術室に入室し、麻酔の導入が始まると執刀医のH. Akintur先生が入って来ました。挨拶をすると、「せっかく日本から勉強に来たのだから一緒に手術をしないか」という思いがけない返答が返って来ました。初対面の医師に助手を許す懐の広さには感服しました。
又、ボンには現地の人々が中心となって運営している日本語補習授業校が在り、留学中にその校長を務めるという貴重な経験も出来ました。
1つの論文に興味を持った事をきっかけに、沢山の人に巡り合え支えられた素晴しい留学体験でした。インターネットやSNSで海外の情報がリアルタイムに配信される時代になりましたが、現地での体験や修練・研鑽には敵いません。日本を見つめ直すという観点からも、若手医師への海外留学をお勧めします。留学先の候補には、是非ドイツを加えて頂ければ幸いです。
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