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未来の会

揺るがない精神で僻地・地域医療に献身 ~医師と地域の双方に魅力的な仕組みが必要~

揺るがない精神で僻地・地域医療に献身 ~医師と地域の双方に魅力的な仕組みが必要~
川上 正舒(かわかみ・まさのぶ)1946年東京都生まれ。73年東京大学医学部卒業。77年コロンビア大学内科研究員、79年ロックフェラー大学研究員、82年東京大学医学部附属病院第3内科、83年国立病院医療センター臨床研究部研究室長を経て、89年自治医科大学附属大宮医療センター(現・さいたま医療センター)動脈硬化代謝科科長、同大総合医学1助教授。97年同教授、2003年同大附属大宮医療センター長、12年同大医学部名誉教授。地域医療振興協会練馬光が丘病院院長。21年紫綬褒章受章。23年地域医療振興協会会長に就任。練馬光が丘病院名誉病院長。

僻地医療と地域医療の充実を理念に掲げ、全国の都道府県が共同して設立した学校法人により、1972年に自治医科大学(栃木県)が誕生した。その後、86年には同学の卒業生で組織される地域医療振興協会が発足。長年に亘り、地域医療の支援に信念を持つ多くの医師を全国に送り込んで来た。未だ解消しない医療格差の解決の糸口は何処に有るのか。昨年6月に地域医療振興協会長に就任した川上正舒氏に、同学と協会のこれ迄の取り組みと、地域医療の現状と課題について話を伺った。

——先生は東京大学のご出身ですが、自治医大に移られた経緯をお教え下さい。

川上 私が自治医大に奉職したのは1989年です。自治医大は私が大学を卒業する前年に設立された大学で、第3内科の中尾喜久教授が東京大学を定年退官され、初代学長となりました。自治医大が附属大宮医療センター(現・附属さいたま医療センター)を新設する際に中尾先生と共に自治医大創設に尽力された髙久史麿先生(当時東大第3内科教授、その後自治医大学長)に声を掛けて頂きました。当時その設立経緯について詳しい事は知りませんでしたが、自治医大の1期生が義務年限を終えた後のキャリアを考え、臨床研修の為の拠点病院の設立を所望されていたという事で、中尾先生と1期生の吉新通康先生(現・地域医療振興協会理事長)を始めとする自治医大の卒業生達が臨床研修と総合医の活動の場として構想された様です。ところが、大宮では一般的な総合医療を行う病院は十分、必要なのは循環器病を診る専門病院だという声が有りました。そこで、大宮医師会との協議により、循環器診療と総合医療を標榜する病院としてスタートしました。今でこそ、救命救急センターや周産期母子医療センターも備え、地域に根差す高度急性期病院に発展しましたが、当時は総合医療と循環器の高度医療を担う2つのグループが存在しているという体制でした。

——自治医大と言えば9年間の義務年限が有ります。

川上 卒業すると、出身の都道府県に戻り、多くの県では病院や診療所、保健所等で公務員として勤務する事になっています。しかし、自治医大の設立と同時期に、医師不足の解消を目的とした「一県一医大構想」が閣議決定され、更には日本全国で毎年増え続ける公務員を削減する流れも有り、自治医大卒業の医師を義務年限後も公務員として受け入れる事に難色を示す県が出て来ました。中尾学長もこれに関しては大変心を痛められていた様です。

研究の精神を吹き込み、地域医療支援の精神を会得

——大宮医療センターでは臨床に取り組まれました。

川上 それ迄の私は米国留学や国立病院医療センター等で主に研究に従事して来ましたので、臨床は自治医大出身の先生方から教えて貰う事も多々有りました。一方、当時の大宮医療センターは精神的にも物理的にも所謂研究をする環境が整っておらず、先ずはその為の設備を一から整えるところから始めました。病棟で使用されていなかったフロアに機材を持ち込んで研究室を作り、空いていた病室を培養室にしました。最初は中々理解して貰えませんでしたが、病気を治す為には基礎に有るメカニズムを分かろうとする努力が必要だという事を唱え続け、少しずつ大宮医療センターからも論文を発表する様になりました。充実した研究室も作って頂き、段々と拡張され、最後は管理・研究棟の起工式を見届けて退職となりました。

——大学でも教授として活躍されました。

川上 教授になってからは人事にも関与する様になりました。地域医療振興協会と協力しながら、大宮医療センターを含めた施設間の人材の調整を行う事が増えました。方々からこういう人材が欲しいと要望が届き苦慮した事も有りました。又、大学事務部の地域医療推進課に在る卒後指導委員の職務にも就きました。そこで先ず驚いたのは、大学が卒業生の状況を把握している事です。現在何処の医療機関の何科に勤務しているのか、開業した等の情報に至る迄、1期生から全てのデータを掌握しています。義務年限を履行中の卒業生と県の間でトラブルが起きると、卒後指導委員の担当教官が飛んで行って問題解決に尽くします。こうしたシステムは、中尾先生、髙久史生が主導して作られたものと思います。私自身も山口と北陸3県を担当し、実際の地域医療の現場を見る良い機会にもなりました。

——この頃から地域医療振興協会の活動と深い関わりがお有りなのですね。

川上 地域医療振興協会は元々、自治医大の卒業生による同窓会から始まったと聞いています。他大学と異なり、卒業後は全国へ散らばりますので、卒業生同士で連絡を取り合い、ネットワークの中で支え合う事を目的としてスタートしたそうです。それが発展し、1期生の吉新通康先生を中心に、義務年限を終えた医師の受け皿として86年に地域医療振興協会が設立されました。発足当時は定款上、自ら医療施設を運営出来る組織ではありませんでしたが、その後定款を改め、92年に初となる直営の石岡第一病院を開院しました。私もこの立ち上げ時は自治医大におり、仲間も何人か応援に出向しましたので、これ以降、協会の発展を強く望んで来ました。現在の吉新理事長とも大学にいる時から、多くのディスカッションを重ねて意識を共有して来ましたので、私も大分自治医大の精神に馴染めたのではないかと感じています。

——練馬光が丘病院の院長に就任された経緯は。

川上 自治医大の定年を迎える頃、地域医療振興協会が日本大学から練馬光が丘病院の運営を引き継ぐ事になりました。地域医療振興協会の会長を兼務されていた髙久学長からご推薦を頂き、2012年に病院長に就任しました。正式にはここから地域医療振興協会の一員となった訳ですが、ここに至る迄の過程は非常に連続性の有るものだったと思っています。

——昨年6月には4代目の会長に就任され、重責を担う事になりました。

川上 慣例であれば学長が協会の会長に就任するのですが、永井良三学長は宮内庁皇室医務主管の職務に就かれている関係で、民間法人の会長に就く事が出来ない為、特別顧問をされています。吉新先生が会長と理事長を兼務されていたところにお呼びが掛かりました。吉新先生と共に、協会の更なる発展に尽くしたいと思っています。

全国各地のニーズに応じた3つの事業展開

——協会の事業内容についてお教え下さい。

川上 地域医療振興協会は発足当初より、①施設運営事業、②医師派遣・診療支援事業、③医師研修事業の3つの事業を掲げています。1つ目の施設運営に於いては、直営施設のみならず医師不足に悩む地方自治体からの依頼を受けて、指定管理者制度により病院や診療所の運営管理を担っています。現在、直営施設を含め、北海道から沖縄まで全国85施設に及ぶ病院や診療所を運営しています。2つ目については、山間や離島等の僻地へ緊急臨時的な医師の派遣を行っています。例えば、学会参加や研修中、休暇等で代診が必要な時等に要請を頂いています。22年度の実績で協会外施設への支援日数は年間延べ1766日に上ります。3つ目の研修事業では、地域医療を担う総合医の育成に取り組んでいます。当協会の運営施設を活用し、実際の僻地に赴いて行う地域研修を取り入れる等、非常に考え抜かれた研修プログラムを提供しています。


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