GUEST DATA山本 修一(やまもと・しゅういち)
①生年月日:1957年10月5日 ②出身地:東京都 ③感動した本:『夜はまだあけぬか』(梅棹忠夫)、『羊をめぐる冒険』(等、村上春樹の小説の数々) ④恩師:安達惠美子・千葉大学教授(眼科)、竹内忍・東邦大学佐倉病院教授(眼科)、Peter Gouras・コロンビア大学教授(眼科) ⑤好きな言葉:幸運の女神には前髪しかない ⑥幼少時代の夢:祖父の様な医師になる事 ⑦将来実現したい事:医療を取り巻く環境がどんどん厳しくなって行く中で、日本の病院医療の縮図ともいえるJCHOで1つのモデルを創り上げて行きたい
流行の発信地で茶道と文学に親しむ
生まれは東京・渋谷の松濤で、幼い頃はハチ公まで1人で三輪車を漕いで行き、両親から怒られていました。松濤は古く佐賀鍋島家の茶園が在った事から茶の湯に縁の有る地で、実家は鍋島松濤公園に面していました。母は自宅で「松濤庵」という茶道教室を開いていました。茶会の時には手伝いをさせられていましたので、今でもお茶の嗜みが多少は有ります。
小学校は渋谷区立大向小学校(現在の区立神南小学校)で、途中から渋谷公会堂の隣に移転しましたが、元々は最近まで東急本店だった場所に在りました。中学は受験をして開成中学校に入りました。学生紛争が激化していた頃で、麻布高等学校では火炎瓶が飛び交っていましたので、安全を考慮しての選択でしたが、坊主頭にしなければならない規則には抵抗が有りました。渋谷の街を坊主頭で歩くのが恥ずかしく、いつも帽子を被っていました。
学校の勉強は好きにはなれず、中学時代は本ばかり読んでいました。中学3年の時に進学が危ぶまれ、母が担任から呼び出された事も有りました。高校に進学してから勉強を始めたものの皆優秀で、いつも中位の成績でした。大学に通い始めた頃、総武線の車内で当時の担任に出くわし、千葉大学に受かった事を報告すると、驚きながらも喜んで下さいました。
祖父に憧れて眼科医を志す
母方の実家が代々仙台で眼科の開業医をしていた事と、父の兄弟も医師をしていましたので、自然と医師を志す様になりました。循環器内科にも興味は有りましたが、祖父への憧れが強く、当時は眼科の人気が出て来た頃でもあり、最終的に眼科を選びました。国家試験に合格して一番嬉しかった事は、それからは好きな事だけを勉強出来る事でした。
留学先で新境地と再生医療の先駆けに触れる
富山医科薬科大学は金沢大学、新潟大学、千葉大学の混成で創設された大学で、眼科の教授は千葉大の先輩でした。設立当時の千葉大学のメンバーが抜けた際、私に白羽の矢が立ちました。そこで、海外留学を条件に富山へ移る事になりました。
千葉大学眼科学教室の安達惠美子教授のご紹介でコロンビア大学に留学させて頂いたのは、33歳の時。妻とは3カ月前に結婚したばかりでした。コロンビア大学は網膜移植の再生医療の先駆けで、網膜そのものを移植する研究を行っていました。研究室を率いるピーター・グーラス教授は、「臨床家は直ぐに統計に頼ろうとする。10の内9同じものが正しいのではなく、外れているところにこそ真実が隠れている」と言い、日本人には無いその奇抜な発想に圧倒されつつも惹かれて行きました。後にグーラス教授からは、給料を出すから残らないかと誘って頂きましたが、臨床を捨てて研究に骨を埋める覚悟は無く、元々2年の約束の為帰国しました。日本人は留学しても大体2〜3年で戻って来てしまうので駄目ですね。同じ頃、天安門事件で国を追われて来た中国の研究者らは、その後米国で地位を築き上げ、ここ10年で続々と帰還していますから敵いません。その点、私と同時期にサンディエゴのソーク研究所に留学されていた京都大学眼科(当時)の髙橋政代先生は、最先端の再生医療技術を引っ下げて帰って来られたのですから素晴らしい事です。
若くして助教授に抜擢、そして病院長に迄駆け上る
留学後は富山医科薬科大学に戻り、臨床に専念しようと決めていました。帰国してから外来で患者さんに「お掛け下さい」と言うと皆に驚かれましたが、次第に皆が真似する様になったのは可笑しかったですね。新任の教授の目に留まり37歳で助教授に就くと、未熟さ故にトラブルにも遭いました。手術も外来もさせて貰えなくなり、千葉大学出身のトップに相談したところ、東邦大学佐倉病院眼科の竹内忍先生の下でお世話になる事になりました。そして竹内先生の後を継ぎ、教授となって2年後、安達教授の退官に伴い、後継者として千葉大学に戻りました。最高水準の眼科医療の提供と、最高水準の医療を提供出来る眼科医の育成を掲げて突き進み、気が付けば副学長・病院長まで務めていました。
全国の病院を回り、問題点の洗い出しから着手
定年前に千葉大学を早期退職し、2022年に地域医療機能推進機構(JCHO)の理事長に就任して先ず始めたのは、全国57の病院を回る事でした。今では2巡目に突入し、中堅職員を集めて「Shu’s Room」と称する談話会を開き、1時間半自由に意見を述べて貰っています。問題点の多くは共通していて、地方の小規模な病院は長く人事が動かない、或いは研修等の病院同士の横の繋がりが希薄な事に有ります。
又、57病院の全てを収支、マーケット、競合、地元自治体からの支援状況等の幾つかのファクターで点数付けをして4グループに分けました。最も危うい群を「経営継続困難病院」とし、来年度迄に改善に向けて出来る対策を徹底的に行う様にしています。その他の病院に対しても、「地域で必要とされ、信頼され続ける病院」になれるかを自らに問いなさいと話しています。
地方の教育研修体制の整備に乗り出す
JCHOは14年の設立から、この10年は必死だったと思います。運営交付金が一切出ず、赤字を出せないという過酷さの中で、歪みが各所に噴出していました。それらを順番に埋めて行く為には、アカデミアに偏らず、様々な職種の人との繋がりを広げて行く必要が有ります。例えば病院の建て替えを検討するには、不動産デベロッパーやゼネコンの力が必要です。他業種の皆さんの知恵を借りて、新しい発想で物事を考えて行きたいと思っています。
JCHOの病院の多くは、医師の採用や派遣に関して大学と強い連携を持っています。今のポジションになり良かったと実感しているのは、医師を供給する大学側の立場を経験して来た事です。大学側から見れば、しっかりとした技術を身に付けられる医療機関へ人材を送りたい。一方、医師が不足する医療機関には、自力だけでは人材を育てる体制や、魅力的な環境を整える事が難しい現状も多く見られます。両者の立場を理解する人間として、どの病院に行っても良質な教育を受けられる体制の構築を考えています。そうして新たに掲げたミッションが「教育のJCHO」です。
新しい事を始めるには慎重さも大切ですが、「幸運の女神には前髪しかない」と自分自身を鼓舞しながら、前進して行きたいと思っています。
インタビューを終えて
これ迄生粋の松濤っ子に出会った事がなかった。JCHO第2代目の理事長として更なる発展と改革の重責を担うが、飄々とした余裕ある大人の雰囲気が有る。その理由は何だろうと考えた。やはり「松濤っ子」と呼ばれる一族は何かが違うのか。少年時に嗜んだ茶道の影響か? 運動会の激しい騎馬戦でも有名な文武両道の開成中・高で過ごした6年間がその源を作ったのか? 物事を俯瞰的に考える経営マインドを始め、医師の働き方改革を推進する為の改善策等、千葉大学附属病院の病院長を務めた6年間の成功体験がベースに在るのかも知れない。何はともあれ、今後、働き方改革が始まる等難しい舵取りが求められる時に、JCHOを牽引するトップに最高の人材がいる事はラッキーだった。(OJ)
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