甲能 直幸(こうの・なおゆき)
立正佼成会附属佼成病院 総院長
留学先: 米The Mount Sinai Medical Center, Mount Sinai School of Medicine(1985年6月〜88年8月)
留学時の研究生活
1985年6月から88年8月迄ニューヨークのマウントサイナイ・メディカルセンター腫瘍学講座(department of neoplastic diseases)に留学した。この部門の責任者はアメリカ癌学会(AACR)の会長を務め『Cancer Medicine』の編集者で、2013年にはAACRアカデミー初代フェローに選出されているJames F. Holland先生で、直属の上司は東北大学出身でHolland先生の懐刀、大沼尚夫先生だった。
初夏の日差しが照り付ける暑い日にJFK空港に降り立ち、乾いた空気の匂いを感じた事が昨日の事の様である。翌日早朝に、セントラルパークに面した5番街100丁目の研究室に赴きガイダンスを受けた。この時、当時の業績・研究テーマ等をレクチャーして頂き、細胞の分裂増殖、癌細胞と正常細胞の違い、抗癌剤に対する耐性と克服、細胞の老化等に関する文献を山の様に渡された。その後、研究に関する姿勢として受動的ではなく能動的に自分で考える事を求められ、研究テーマを自分で探すように言われて地獄の様な2週間が始まった。
固形癌のモデルである多細胞スフェロイド(マリモの様な培養細胞multicellular tumor spheroid)(MTS)を用いてmonolayerではなく、より臨床に近い状態で実験を行う事を前提にプロポーザルを作成した。癌の多剤併用療法のパイオニアであるHolland先生はこの方面では多くの業績を挙げており、薬剤耐性の克服はラボの中心的な研究テーマだった。私は頭頸部癌を扱っており、臨床で初めは抗癌剤がよく効いても完治には至らず、その後進行するケースを多々経験して来た。日本でも恩師である慶應大学耳鼻科講師・犬山征夫先生(後の北海道大学教授、日本頭頸部癌学会理事長)のご指導を受けて作成した学位論文は「頭頸部癌に対する有効なレジメン開発」であり、多剤併用療法は身近なテーマだった。作成した計画書を自信を持ってプレゼンテーションしたのだが、面白そうではあるがそれは日本に帰ってからやりなさいと駄目出しをされた。この繰り返しが2週間続き、9回目の計画書でやっとOKが出た。これを翌年のAACRで発表し、初めての米国での論文となった(Kohno N, Ohnuma T, Holland J F. Biller H. Effects of anticancer agents on the shedding of ells from human multicellular tumor spheroids. Invasion and Metastasis, 1987; 7: 264-274)。以後、AACRの発表がノルマとなり、2年目は2件、3年目は3件(シンポジウム1件、パネルディスカッション1件)の発表をする事が出来、7本の筆頭著者論文を作成した。研究費は潤沢に有り、学会も申請すると比較的自由に参加が認められ、研究面ではお金に苦労した事は無かった。
留学中に一番緊張した出来事は、3年目に経験したNCIからのsite visitで約20分のプレゼンテーションをした時である。この訪問で研究費(10億円位と聞かされていた)の審査が行われるので、スタッフ以外が発表するのは危険過ぎると、Holland先生が私に発表させる事に異議を唱える人が沢山居た。中でもLarry Norton先生(後にスローン・ケタリング癌センター。Norton-Simon Hypothesisの提唱者)は強烈に反対していたが、発表・質疑応答後に駆け寄って来て、日本からのスタッフが積極的にこのチームに関わっている事が高く評価された、と言って労ってくれた。強面のNorton先生が笑った顔はこの時初めて見た。又、私の専門は耳鼻咽喉科頭頚部外科である為、2年目からは耳鼻科の手術の大家であるH. Billar教授の手術やカンファレンス、fresh cadaver dissectionに参加させて貰える事になり、知識・技術のみならず人脈(これが後に一番役に立った)も広がり非常に有意義だった。
留学時の日常生活
私が米国に居た時期は世界的に景気も良好で、特に日本はバブル絶頂の頃だった。渡米時には1ドル250円だった為替レートが半年で200円を切り、帰国時には130円と半分になっていた。当初2万ドルだった年俸が、帰国時には3万ドルと増えていたが、日本円に換算すると寂しい限りだった。当時ニューヨークには日本人の商社マンが約3万人おり、中学・高校の同級生に誘われての会食も良い気分転換になった。一般的にニューヨークに居る日本人は裕福だが、我々医学留学者はおしなべて質素な生活をしており、郊外のリバデールと言う街で助け合って生活し、週末はテニス・ゴルフ・バーベキュー等を楽しんでいた。
ラボでの楽しみは連れ立って安い酒場に行く事だった。概して酒豪で、10歳年上のアイリッシュの教授も例に漏れず桁外れに酒が強かった。行きつけのアイリッシュバーに連れて行ってくれ、立ったままアイリッシュビールに始まり次にストレートのウイスキーをぐいぐい飲み、これが延々と2時間位続く。この後で一応食事になるのだが、私は足腰が立たない位に酩酊しており、いつも何を食べたか記憶に無い。夜中の2時頃にやっと開放される。
何故か飲み会の次の日に決まって行われる拷問の様な7時からの早朝カンファレンスでは、教授はコーヒーをすすりマフィンを食べながら、ピシッと司会をしている。私は這う様にカンファレンスルームに行くのだが、これが限界で後ろの席で頭を抱えてうずくまっていると、終了後に私の横をウィンクしながら帰って行く元気な姿が信じられなかった。約100名居るラボの人々は仲が良く、家族同伴のクリスマスパーティーや飲み会、結婚式等、頻回かつ盛大に行われた。
留学して思う事
アメリカに留学して良かった事は、家族と過ごす時間が増えて絆が強くなった事である。家族皆で助け合いながら生活し、週末の郊外へのドライブ、小旅行、年に2回位の休暇を取っての大旅行(ジャマイカ、フロリダのマルコアイランド、ディズニーランド等)は今でも子供達の脳裏に深く刻み込まれている様である。
これ迄の自分の生き方は、周囲との調和を第一に、流れに抗う事無く自然に任せ、受動的な生き方を選択して来たと思う。留学時に、積極性・能動性を促され、考え方・生き方に変化が生じ、これが以後の人生に大きく影響した様に感じている。留学が1つの切っ掛けとなり生きる姿勢に変化が生じ、多くの出会いを経験した事は、掛け替えの無いものを得たと思っている。
LEAVE A REPLY