①生年月日:1960年10月1日 ②出身地:静岡県 ③感動した本:『ローマ人の物語』(塩野七生)、『死海のほとり』(遠藤周作)、『ポーツマスの旗』(吉村昭) ④恩師:秋元成太・名誉教授(日本医科大学泌尿器科学教室)、友吉唯夫・名誉教授(滋賀医科大学泌尿器科学講座) ⑤好きな言葉:常行一直心(『六祖壇経』)、最も強いものが生き残るのではなく、最も賢いものが生き延びるのでもない。唯一生き残るのは、変化できるものである。(ダーウィン) ⑥幼少時代の夢:医師 ⑦将来実現したい事:地域医療構想実現の為のデータ基盤構築と、そのデータに基づく対策の実践
天邪鬼な性格の幼少期・背伸びした高校時代
医療関係の仕事に就いていた叔父に憧れ、幼い頃から医師になるのが夢でした。勉強はと言うと、天邪鬼な性格が災いし、今一つ上手く行かないところが有りました。
例えば、「考え方は人それぞれ」と教わり、国語の読解問題で感じた事をひねって解答し不正解に。今ならば、人の気持ちを正しく理解する為に読解力が重要であり、相手の言いたい事を素直に読み解く事が大切だと分かります。先ず何の為の学問なのかを教えてくれていたら、もっと違う結果が有った筈だと今でも思います(苦笑)。
中学は静岡大学教育学部附属静岡中学校に入りました。髪型・服装自由という伸び伸びした校風で、ジーパンを穿いて通った事も有りました。中学時代は、安部公房の小説を読んでみたり、クラシック音楽を聴いてみたりと、今思うと、生意気な中学生でした。高校は、受験して県立静岡高校に入学しました。妻は高校3年の時のクラスメートで、長い遠距離恋愛の末に結婚しました。後に生まれた娘には、中学時代流行っていた『赤頭巾ちゃん気をつけて』(庄司薫)の作者の名前を取って「かおる」と名付けました。
尊敬出来る恩師に出会い、泌尿器科の道へ
高校3年になると、夢であった医師になるんだという強い意志が固まり、滋賀医科大学に進学しました。語学が苦手で、当時、英語が受験科目に無かった事が決め手でした。入学後も語学に足を引っ張られ、3年に進級する時、ドイツ語の試験が不合格となり単位を貰えず。幸いな事に、当時は仮進級という仕組みが有りましたので進級こそ出来ましたが、結局ドイツ語を4年間受講する事になりました。
大学2年の時に泌尿器科の友吉唯夫教授に出会い、先生が顧問をしていたハンドボール部に入部しました。友吉先生は京都大学の文学部を卒業されてから医学部に入って医師を志したという経歴が有り、文学的なセンスも含めて人として尊敬出来る方でした。泌尿器科を選択したのも友吉先生の影響です。
卒業後もそのまま滋賀で勉強するという道も有りましたが、生まれてから20年近く住んだ静岡とは言葉も文化も違う関西の空気に気圧されていた私は、既に日本医科大学の医師であった従弟からの誘いも有り、日本医科大学の泌尿器科に入局しました。
洗礼を受けた留学の経験が後の経営に生きる
博士号を取得し、医師になって6年目。秋元成太教授からの勧めでボストンのブリガム・アンド・ウィメンズ病院の泌尿器科に留学する事になりました。異文化圏で生活してみたいという好奇心で渡米した私を待ち受けていたのは、マイナス20度の寒さと厳しい資本主義の世界でした。これまで臨床一筋だった私が、分子生物学の実験を手伝う事になったのは全くの想定外で、ストレスばかりが募り、僅か3カ月で10kg以上痩せてしまいました。それでも家族やご近所さんの優しさに支えられ、研究室では掛け替えの無い仲間に出会い、過酷な留学生活を乗り切る事が出来ました。曖昧さが許されず、結果だけが評価される米国の文化に触れた経験は、後々経営に携わる様になってから生きる事になりました。
新型コロナウイルス感染症患者の受け入れを決断
帰国後は北村山公立病院、日本医科大学の講師を経て、2000年より仁愛会(現・社会医療法人ジャパンメディカルアライアンス)の一員となり、海老名メディカルプラザの院長の後、12年に海老名総合病院の副院長、15年に病院長に就任しました。病院経営の責任を担う立場として経営効率を考える事は勿論重要な事ですが、収益を上げながら如何に社会に貢献出来るかを考えて来ました。
当院の在る神奈川県海老名市は、人口当たりの病院数・医師数が全国平均を大きく下回り、救命救急センターが無いという問題を抱えていました。そこで17年に医療圏で唯一の救命救急センターを当院に開設し、救急応需に力を注いで来ました。その様な中で、新型コロナウイルス感染症が流行しました。当院は一民間病院であり感染症指定機関でもありませんが、県内にダイヤモンド・プリンセス号が停泊していた為、かなり早い段階から感染患者の受け入れ要請を受けていました。しかし、通常診療の維持や職員の生活を考えると決して容易な決断ではありませんでした。
方々から懸命な声掛けを頂き、最後に東日本大震災の津波のスライドを見せられながら「津波がそこ迄迫っているのに、何も準備をしないのですか」と言われた時は目が覚める思いでした。そこで覚悟を決め、20年4月から新型コロナウイルス感染症患者の受け入れを開始しました。事務棟として利用していた旧病院にコロナ用の病棟を新設し、50〜70床を確保しました。財政について考えている余裕は無く、初年度は数億もの赤字となりました。ところが報いは有るもので、結果的には補助金によって立て直す事が出来ました。社会が必要としていることをやれば、社会はそれを評価してくれるんだと感じました。そして、それこそが我々のやるべき事なのだという事を改めて痛感しているところです。
真のDXと患者経験価値向上を目指す
現在特に注力しているのは、デジタルトランスフォーメーション(DX)です。当院では院内システムを集中管理するコマンドセンターを導入し、病床稼働状況等をリアルタイムで分析・可視化しています。更に、看護師や事務職等のあらゆる職種からスタッフを選抜し、データアナリストとして育成しています。単なるデジタル化ではなく、デジタル化によってスタッフの意識や行動の変化に繋げてこそ真のDXだと考えています。
又、当院では「患者満足度」(Patient Satisfaction:PS)に代わる新しい指標として、英国や米国等で広く使用されている「患者経験価値」(Patient Experience:PX)を重視しています。例えば、看護師の対応について「とても良かった」「あまり良くなかった」という主観で評価するのがPSであるのに対し、ナースコールをしてから何分以内に看護師が来たかという測定可能な経験を評価するのがPXです。患者満足度は必ずしも医療の質を反映するものではありません。「痛み止めを下さい」と言う患者さんに対して、要望通りに処方をすれば満足度は上がりますが、その患者さんの病気が治癒しているとしたら医学的には鎮痛剤は過剰という事になります。患者さんとしっかり対話を行い、最善の医療を提供して行かなければなりません。
患者さんの良きパートナーとなり、地域に必要とされる病院となれる様、今後も「常行一直心」で前進して行きたいと思います。
インタビューを終えて
数年前に都内の医療勉強会でお会いしたのが最初。その後「日本の医療の未来を考える会」のメンバーにご加入頂いた。勉強熱心さはピカイチだ。人生の節目節目での素晴らしい医学者との出会いが、服部先生の力に変わって行く。英語が苦手だった若き医師がボストン留学を決断するその凄さ。勇気あるチャレンジャーだ。ボストンでの様々な苦労や経験を経て覚醒する。内向的な今の若者には服部先生の生き方を手本として欲しいとさえ思う。持ち前のチャレンジ精神で、地域で初の救急センターを開設、コロナ下では多くの患者を受け入れる取り組みを決断。従来の患者満足度に留まらず、新しい価値観である患者経験価値を掲げ、神奈川県の中核都市の医療に貢献、益々の活躍が期待される先生だ。(OJ)
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