埼玉医科大学総合医療センター(埼玉県川越市)
総合診療内科・感染症科教授
岡 秀昭/㊦
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックへの対応でリーダーシップを発揮したことが評価され、2020年7月に教授に昇格した。しかし、慢性的に全身に抱えている痛みは癒えず、診断も付かないままで、心身とも不調だった。
内視鏡で潰瘍性大腸炎が発見される
皮膚科医からはベーチェット病を疑われ、オテズラの内服によって口内炎の症状は消えたものの、肝心の痛みは引かなかった。COVID-19のピークで、やむなく研究室に泊まり込み、その後は病院近くにワンルームマンションを借りた。食事はコンビニエンスストアや病院の食堂で済ませたが、薬の副作用で嘔気にも見舞われた。
体格が良く体力は自慢で、高校、大学と柔道に打ち込んでいた。趣味は筋トレだが、痛みに堪えかねて中断していた。筋トレの心地良い痛みとは全く異質の痛みが続いていた。体力が衰え、86kgだった体重は70kg台まで落ちた。
リウマチを念頭に置いて、生物学的製剤を立て続けに使用してみたが、有効とは言い難かった。上司である院長にも病状を伝えざるを得ず、無理のない範囲で働くよう指示された。完全休養ができるはずもなく、休みを挟みながら、引き続きCOVID-19の診療を牽引した。カンファレンスやテレビ出演などでも多忙で、疲労は消えなかった。
22年秋、第7波が落ち着いたころ、懇意にしている外部のリウマチ内科を受診して相談すると、「腹痛はないか」と尋ねられた。腹痛も下痢も全く自覚症状はなく、それなりに食欲もあった。彼の説明によれば、潰瘍性大腸炎を併発したベーチェット病の場合、トルツ(IL-17阻害薬)が効かないことがあるということだ。勧められるままに、外の病院で内視鏡検査を受けてみることにした。すると、小腸と大腸のつなぎ目の回盲部に潰瘍があることが判明した。その部位の潰瘍は、同じく炎症性腸疾患のクローン病や、稀に腸に生じる結核の可能性もあったが、内視鏡を担当した医師は、クローン病の潰瘍と異なると言う。念のため、大学の消化器内科医にも相談したが、やはりクローン病は否定された。
皮膚科医の診立て通り、ベーチェット病だった。感染症専門医として、ベーチェット病の診断はしたことがあった。発熱するタイプがあり、感染症と鑑別診断が必要なためだ。おなじみの疾患ではあったが、自分のように痛みが主体の病態に遭遇したことはなく、診断後は専門医に委ねるので、経過を熟知しているわけではなかった。
国の難病に指定されており、難治な疾患であることは承知していたが、確定診断がついたことを安堵する気持ちもあった。画像検査や採血などで異常がないと言っても、これほど痛みがあって不調なのに、正常なはずがないと確信していた。「詐病や怠けていると思われることもなくなり、堂々と病気を名乗れるようになった」
加えて、難病の医療費助成制度に申請できるようになったことも、幸いだった。高額な生物学的製剤も公費で負担してもらえるため、早速手続きを取った。口内炎は収まっていたが、気がかりなのが、仕事や生活に直結する目の症状だ。単なる眼精疲労か、ベーチェット病による症状なのかが分からず、不安を覚えた。
体調の悪い時は、部下たちがコロナ患者の診療を肩代わりしてくれるようになっていた。自分の病状については、スタッフには包み隠さず伝えていた。「同じ医師として、診断が難しい疾患が解明されていく過程を見せられたことは、学びにつながったはずだ」
仕事人間から脱却しオフを楽しむ
働きづめだったのが、オン・オフを明確にするために、新たな趣味としてフライフィッシングを始めていた。もともと釣りに興味があり、アウトドアのスポーツであれば感染しにくく、ストレスも発散できるというのが理由だった。リウマチ様の症状で就寝中に体が固まり、朝起きるとこわばりがあったが、ほぐすと楽になった。自分が楽しみながらできることを探し、リフレッシュになればなお良いと考えた。
現在の主治医は、岡自身が感染症を指導した後進の医師だ。感染症とリウマチの双方の専門家として活躍し、確定診断に至った内視鏡検査の受診を助言してくれたのも彼である。皮膚科医の診療を引き継ぎ、オテズラや潰瘍性大腸炎治療薬のサラゾピリンを処方してもらっている。生物学的製剤は使っていない。コロナ禍も収束し、体調は発症前と同じとは言えないものの、8割方回復した。「寛解」とまでは言い切れないが、それを目指し、日々仕事に打ち込みながら、治療を続ける。目を気遣って眼科も受診し、視力は頻繁に確認している。体調には波があり、はっきりした悪化要因も分かってきた。ストレスや疲労でも悪化するが、何より顕著なのが気候の変化だった。カラッと乾燥した気候の日は体調が良い。反面、梅雨時や台風が頻発する時期は、今も寝込むことがある。
病前と同じには戻れないが、病気は運命だと前向きに捉えている。病を得たからこそ、見えてきたことも多い。「命に関わる病気が重視されがちだが、生死に直結しなくても、慢性的な痛みなどでQOLが落ちているのに、うまく医師に伝わらないことがある」。自戒を込め、患者にはそういうもどかしさを感じさせないようにしようと思う。
そして、「人生は仕事だけではない。病は、立ち止まることも必要だと思えるきっかけになった。助けてもらって、素直に感謝できるようにもなった」と言う。直接命に関わることはない疾患だったのが幸いし、趣味に巡り会えたことで、心身が充実している。休日は愛車を駆って、釣り糸を垂れ、温泉に浸かるのが定番となった。最近は愛玩犬を飼い、その散歩も日課となった。
感染症医の育成に変わらぬ情熱を注ぐ
子ども時代、酒屋を営んでいた父は厳しく、体調が悪くても「怠けるな」と言われ、小学校、中学校は欠席したことがなかった。今は、休むことに負い目を感じる必要はないとはっきり言える。父ががんで亡くなった46歳を過ぎてからは、反発心を超えて懐かしさが強い。そして、まだ自分にはやりたいことがあると思う。
感染症科が日本で定着していなかった時代からすれば、COVID-19のパンデミックは、それを認めてもらうきっかけになったことは間違いない。そこに力を尽くしてきたという自負もある。この先もマイペースで、決して無理をするつもりはないが、引き続き、教育にはできる限り情熱を注ぎたいと考えている。
かつての勤務先で、HIV患者の受け入れを上司に反対された苦い思い出がある。「若い医師たちは、機会さえ与えれば自力で結果を出せるまでになった。道筋を示して、次代の感染症診療を担える人材を育てていきたい」。
3人の息子たちには、医師の道に限らず、意義があり、自身にとって価値ある仕事が見つかれば、望む道に進んで欲しいと願っている。「人生を豊かに、人に気配りするゆとりを持って生きていければいい」(敬称略)
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