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未来の会

第137回 患者のキモチ 医師のココロ

第137回 患者のキモチ 医師のココロ

 医者として「これだけは患者に言ってはいけない」と肝に銘じている言葉が2つある。

 1つは、「今日は忙しい」だ。たとえば患者にいつもの降圧薬を処方して「じゃまた来月」と伝えたら、「あの先生、もう1つ相談があって。骨粗鬆症の検査を受けたいんでお願いできませんか」と言われたとしよう。外来患者はまだたくさん待っている。そういうとき、つい言ってしまうことはないだろうか。

 「今日は忙しいんですよ。また今度にしてもらえませんか?」こう言えば、ほとんどの患者は「すみません、じゃそうします」と理解してくれるだろう。ただ、よく考えてみよう。「忙しい」というのはあくまでこちらの事情であり、患者に伝える必要はないはずだ。

 では、どうすればいいのか。どんなに忙しくても「わかりました。ではこれから検査を受けていただき、あとから結果の説明をしますね」と患者の要求に応じるのがベストか。それも違う。もちろん緊急性が高いときは忙しいか否かに関係なく必要な検査や処置をするべきなのは言うまでもないが、そうでないときは必ずしもすべての求めに応じるのがよいとは限らない。

 私自身はなるべく、「あ、その検査をしてみるのはよいアイディアですね」と患者の提案や要求を受けとめ、そのあとで言う。「検査の結果をしっかり説明したいので、予定を決めましょう。来週の11時くらいはいかがですか。」

 そうすることで患者も、そして私自身も“心の準備”の期間と余裕が生じる。もちろん、予定を組んだその日も忙しいかもしれないが、それでも前もって決めておけば「なんとかしよう」という心構えはできるだろう。

「患者はあなただけではない」の無意味さ

 それからもう1つ、さらにタブーだと思っている言葉は、「患者はあなただけではない」というものだ。これを口にする医者はそれほど多くないはずだが、看護師がときどき言うのを耳にする。もちろん看護師に悪気はなく、患者から「ちょっと、もう1時間も待っているんですけど、診察はまだなの?先生はなにしてるの?」などと言われたときなど、医者を守るために「患者さんはあなただけじゃないんですよ」と返しているのだ。

 もちろん、受診者は待合室で大勢が順番を待っているのを見て、「患者は自分だけじゃない」ということはよく知っている。それでも自分にとって病気は自分だけの一大事であり、誰かから「あなたは大勢のひとりですよ」と言われたら失望するに違いない。これは伝えるだけ無意味な言葉なのだ。

 私の場合、もし看護師が「患者はあなたひとりじゃない」と言っているのが聴こえてきたときは、「患者さんに待ってもらうために、それ以外の言い方はないかな」といっしょに考えるようにしている。ある看護師は、「『あと3人の診察が終わって、4番目が〇〇さんですよ』と名前とともに具体的な順番を伝えてあげるのはどうでしょう」と提案した。なるほど、それなら“その他大勢”ではなくて自分を認識してくれている、と思えるのではないか。ほかにも、「先生、〇〇さんの具合を心配してましたよ。もう少しで順番が来るから、先生に最近の様子をお話してあげてくださいね」と伝える、という意見も出た。これもまた、「私をちゃんとわかっていてくれるんだ」という満足感を与える言葉だろう。

 このあたりについては、エンタメの世界から学べることも多い。たとえば、日本を代表するミュージカル・カンパニーである劇団四季では、どの演目も数カ月、あるいは数年のロングランで上演される。かつてそこの演者と対談したときに、「やっている側はどうやって新鮮な気持ちを保つのか」と尋ねてみたことがあった。するとその人は言った。

「こちらにとっては毎日、同じことの繰り返しでも、多くのお客さんにとってははじめての観劇ですよね。私はいつも幕が上がる前、自分が観る側だったときのことをイメージするようにしてるんです。学生時代、アルバイトのお金を貯めてチケットを買い、それを握りしめてワクワクしながら劇場に来ました。そして、そこでのミュージカル体験の感激が、今の道に進むきっかけになったんです。今日もこの劇場にはあのときの私と同じような人がたくさん来てるんだと思えば、“ああ、今日も同じ芝居か”だなんて思っていられませんよね」

 こちらにとってはルーティンでも、相手にとっては一期一会。この演者のようにはできなくても、診療の間に「疲れて惰性になってきたな」と感じたら、「患者にとって受診は特別なことなんだ」と自分なりに何かのエピソードをイメージするようにしてみてはどうだろう。

 これはどこにも書いたことがないのだが、そんなとき私がいつもイメージする自分自身の苦い経験について記してみたい。

私自身の苦い思い出

 もう10年以上前、父親が消化器系の疾患である病院に入院した。その経過中、腎不全を起こし、腎臓内科のある分院に転院。ただ、家族である私の目から見ても、消化器系の疾患の経過も思わしくなく、それが全身状態の悪化を招いている可能性が確かそうだった。私はナースステーションに行って、「本院の元の主治医の先生に往診に来ていただくことはできませんか」と頼んだ。ナースは「そうですよね」と言ってそこの電話から本院に連絡し、消化器科の医師に往診を依頼しようとしてくれた。

 少し離れたところで待っていた私に、ナースステーション内での会話が聴こえてきた。「消化器の先生に往診を頼んでみたけど、本院で忙しいからそっちには行けないって」

 その医師が多忙なのも、「患者は私の父親だけではない」のもよくわかってはいたのだが、父には命にかかわる異変が起きていた。家族としては、新たに起きた腎不全への対処だけではなく、もともとの原因である消化器系の問題のフォローもぜひやってほしかったが、「忙しい」のひとことで断られてしまうのか。看護師からは「先生に頼んでおきました」とだけ伝えられたが、「もう診てもらえないんだ」とかなり気落ちした。父はそれから間もなく亡くなった。寿命といえばそれまでだが、いまだにときどき「どうしてある時点から消化器の主治医は診てくれなくなったのだろう。せめてその理由を説明してほしかった」と思い出すことがある。

 ただ、私にとってこの経験は、「患者にとって医者は、自分や家族の命を預かるたったひとりの存在」ということを忘れずにいるための貴重な原動力となっている。あのときのことを思い出すと、「先生しか頼れる人がいない」というそれぞれの患者に「忙しいから」とか「患者はあなただけではない」などとはとても言えない。

 もちろん、医師はスーパーマンではないから、一人ひとりの患者に「あなたのためだけにがんばりますよ」と伝えることはできない。「またカゼか」「今日はまだ20人も外来がいるのか。参ったな」などとため息をつくのも仕方ない。それでもときには、「私にとって患者は何百人といるが、患者にとって医者は自分だけなんだ」と自分に言い聞かせてほしい。私もこれだけは忘れないようにしたいと思っている。

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