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iPS細胞による網膜再生で光を取り戻す ~5年後を目途に先進医療として実用化へ~

iPS細胞による網膜再生で光を取り戻す ~5年後を目途に先進医療として実用化へ~
髙橋 政代(たかはし・まさよ)1961年大阪府生まれ。86年京都大学医学部卒業。92年同大学院医学研究科博士課程修了、同附属病院眼科助手。95年米ソーク研究所研究員。2001年京都大学医学部附属病院探索医療センター開発部助教授。06年理化学研究所に入所。網膜再生医療研究開発プロジェクトのプロジェクトリーダーとして、14年世界初のiPS細胞由来網膜色素上皮細胞移植を成功に導く。17年神戸市立神戸アイセンター病院の設立を主導し、研究センター長就任。19年理化学研究所を退所、株式会社ビジョンケア代表取締役社長就任(現職)。22年より神戸市立神戸アイセンター病院研究センター顧問(現職)。

理化学研究所(理研)が2014年に世界で初めてiPS細胞由来の網膜色素上皮シートの移植を成功させ脚光を浴びて以来、昨年迄に5回の臨床研究が実施され、最適な治療法の検討と安全性の確認が行われて来た。治療としてほぼ確立した現在、実用化に向けた調整が始まっている。理研時代から本研究のプロジェクトリーダーとして活躍し、株式会社ビジョンケアの代表を務める髙橋政代氏に、本年5月の集中ドバイ支局での取材に続いて、集中出版株式会社本社にてこれ迄の歩みと今後の見通しについて話を伺った。


——2014年に世界初のiPS細胞を用いた網膜再生治療を成功させました。要因をお聞かせ下さい。

髙橋 成功した要因は、私自身が基礎研究から臨床迄、一貫したプロセスを見て来たという事が1つ。もう1つは、1995年に脳外科医の主人を通して脳の基礎研究を経験する機会が有り、神経幹細胞という概念に触れた事です。それが世界で初めての幹細胞の網膜移植研究の始まりです。

——「再生医療」に対する世の中の評価と、基礎研究、臨床現場の間には乖離が有るのでしょうか? 

髙橋 本来治療は承認を受けてから初めて発表されるところ、20年前に基礎研究を開始した段階で大きく取り上げて頂いたので、世間のイメージとは大きな乖離が有りました。失明した高齢の患者さんが新聞記事を手にご家族と一緒に来られた事も有りましたが、治療は出来ないと伝えると泣いて帰って行かれました。その時は何の為にやっているのかと情けない思いでした。そこで、全国に在る網膜色素変性の患者会に出向き、未だ治療が出来る段階ではない事、たとえ治療をしたからと言って凄く見える様になる訳ではないという事を説明して回り、この新しい医療を理解して貰う事から始めました。以前はがっかりさせる事ばかりでしたが、最近は治療が見えて来て、希望を与える話が出来る様になりました。

——治療が可能になるのは何年後でしょうか? 臨床研究の状況についても教えて下さい。

髙橋 現在、先進医療の適用を申請しているところで、5年後位には網膜色素上皮不全症の治療が出来る様になると考えています。今回は従来の治験ではなく、治療法を柔軟に変えながら開発を行える「アジャイル型」の臨床研究を採用しました。これによって、より安全で効果を得られる剤形を検討する事が出来ました。1例目ではiPS細胞から作製した網膜色素上皮細胞をシート状にして移植しましたが、シートを入れる為の切開部が大きく、視野が欠けてしまうという問題が有りました。次に、小さな穴から液状の細胞を注入して中でシートを作る方式を試みましたが、想定した位置に細胞を置く事が出来ず十分に結果を得る事が出来ませんでした。そこで、これらの弱点を克服した紐タイプを開発し、結果を出す事が出来ました。経過は良好で視力が維持され、がん化は認められていません。

——成功迄の道のりは長かったのでしょうか。

髙橋 我々は世界で初めて霊長類の胚性幹細胞(ES細胞)を使った治療の動物実験に成功していましたが、他人の細胞を用いる為、どうしても拒絶反応が避けられませんでした。70〜80代の患者さんの眼の治療で、全身の免疫抑制剤を使いたくないという思いが有り、躊躇していたところにiPS細胞が登場し、直ぐに飛び付きました。ES細胞のノウハウが有りましたので、そこからは最速で進める事が出来ました。

——満を持してという事ですね。iPS細胞には、何時出会われたのでしょうか。

髙橋 2005年の理研の歓迎会で西川伸一先生から聞いたのが最初です。丁度アメリカで山中伸弥先生がiPS細胞を初めて発表した直後で、その座長として参加されていた西川先生が「(iPS細胞の作製に必要な)遺伝子が4つ有った」と興奮して話をされているのを聞いて、これは凄い事に違いないと感じました。西川先生から話を聞いていなければ、これ程早くiPS細胞に着目する事は無かったでしょう。中には「腫瘍細胞を作っただけだ」と言う人も居ましたし、私も京都大学に居たら斜に構えていたかも知れません。

——西川先生も京大のご出身ですが、神戸の理研と京大はどの様な関係なのでしょうか。

髙橋 神戸の理研は、大学のシステムの問題を感じていた京大の再生研の教授が教授職を退職して作った機関です。古き良き京大の雰囲気が残る、研究者のサンクチュアリの様な場所です。

——大学も問題を抱えていたのですね。

髙橋 変わろうという意識が希薄でした。私が京大病院で病棟の責任者をしていた時に国立大学が独立法人化されました。その時に医局で人材派遣業をやるべきだと再三提案をしましたが、誰にも取り合って貰えませんでした。この時ビジネス化が出来ていれば大きな収益源になっていたでしょうし、良質の人材派遣が出来て地方の医師不足の問題も深刻にならなかったかも知れません。大学本体でなくとも外部に作る事も出来ましたし、更には大学の医局連合として事業化すれば完璧でしたね。

アメリカで目の当たりにした学際性豊かな研究者

——アメリカのソーク研究所に留学されています。研究の場として、日本と違う点は有りましたか?

髙橋 理研はとても良い環境でしたので、研究に関しては大きな差は有りません。しかし、研究者が学際的で、特に産業界に対する感覚は全く異なりました。ソーク研究所はノーベル賞学者を輩出する様な基礎研究のメッカでしたが、臨床医であり基礎研究者という「ダブルメジャー」は当たり前、その上、工学博士という「トリプルメジャー」も居た程です。海外の基礎研究者はライセンス契約の話をする事が出来、会社を立ち上げた研究者も居ました。一方で、日本にはお金の話をしてはいけないという風潮が有ります。長年この違いは何処から来るのかと考えていましたが、『イノベーションはなぜ途絶えたか』(ちくま新書)という本を読んで最近ようやく謎が解けました。アメリカは基礎研究者を産業界に流すという政策が上手く、物理学や数学者をイノベーティブな方向へ引っ張って行く事にお金を使いました。日本の政府も同じ施策をしようとしましたが、中小企業を維持する為に予算を使ってしまったという事です。海外に留学した経験が有る医師は、自分の手で稼ぐという意識を持っていますね。

——留学先で得た感覚が今の事業に生きている訳ですね。日本と海外の医療の違いについての印象は?

髙橋 留学先で子供が病院に罹った時、立派な応接間の様な部屋に通され、ドクターが丁寧に話を聞いてくれた事に驚きました。医療制度の違いでここ迄対応が異なるのかと。医療レベルについては、眼科手術ではやはり器用な日本人の方が上手だと思います。スーパードクターと呼ばれる人は確かに優れていますが、一般のレベルは日本に比べると高くありません。実験でも、遺伝子治療の研究をしていた時、子供のマウスの小さな網膜の裏側にベクターを入れるという作業は私にしか出来ませんでした。


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