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未来の会

第81回 医師が患者になって見えた事 緩和ケア医を襲ったステージ4の大腸がん

第81回 医師が患者になって見えた事 緩和ケア医を襲ったステージ4の大腸がん

医療法人社団悠翔会
ケアタウン小平クリニック(東京都小平市)
名誉院長 認定NPO法人コミュニティケアリンク東京(同) 理事長
山崎 章郎/㊤

山崎 章郎(やまざき・ふみお)1947年福島県生まれ。75年千葉大学医学部卒業。同附属病院第1外科、国保八日市場市立病院(現・匝瑳市民病院)を経て、91年聖ヨハネ会桜町病院ホスピス科部長、2005年ケアタウン小平クリニック院長、22年から現職。

消化器外科医から転じ、日本のホスピスケア医の草分けとなった。がんは何より身近な病気で、2500人以上のがん終末期の患者を看取ってきた。「いつか自分もがんになって死ぬだろう」——いつの頃からか、そうした思いが芽生えていた。

自覚症状で発覚し術後に経口抗がん剤

2018年6月、71歳の山崎に、その日が来た。腹鳴が聞こえた。しばらく様子を見たが、夏の終わりになっても、蠕動運動の亢進は続いていた。「やはり来た。大腸がんだろう」。医師会の仲間に相談し、9月半ばに大腸内視鏡検査を受けた。検査後の画像には潰瘍を伴う隆起性病変があり、がんそのものに見えた。1週間後、大腸がんの診断が下った。

山崎の母は70代で早期の肺がんになったが治癒し、父は心筋梗塞で亡くなっており、いわゆるがん家系ではない。山崎は還暦を過ぎ、高齢者の仲間入りをしても、24時間の訪問診療を続け、生活は不規則だった。深夜勤務が発がんのリスクを高めることは疫学調査でも明らかだ。肉食も好きで、仕事に支障がない限り飲酒もしていたが、そちらは一般的リスクの範囲だ。

連携している総合病院を受診し、自身も何度もメスを振るった手術台に身を委ねた。腹腔鏡手術で取り切れたとのことで、病理検査の結果、リンパ節以外に転移はなく、ステージ3と報告を受けた。クリニックの仲間に負担をかけたが、順調に復帰できそうだ。主治医から、再発率を10%下げるという経口抗がん剤ゼローダ錠の内服を勧められた。取り切れたのなら、再発リスクは低い。それでも服用を決めたのは、長年、抗がん剤の副作用に苦しむ患者を診ており、自分も体験してみようと考えたからだ。2クール目から食欲低下や嘔気に見舞われ、やがて手足症候群も生じ、診療どころか、日常生活にも支障をきたしたため、1クールの休薬を余儀なくされた。その後、減薬して再開したが、副作用は続いた。これからは患者の苦しみに心から共感できるだろうと思えた。

何とか仕事は続けていたが、19年5月のCT検査で、予期せぬ結果が待ち受けていた。主治医は複雑な面持ちで、両肺に複数の転移があることを告げた。ステージ4の宣告だ。続けて、もはや手術は叶わず、ガイドラインに則して順番に抗がん剤を使うことなどを淡々と説明した。つらい副作用に耐えた直後の再発に落胆はした。改めて、ステージ4の固形がんは治せないという標準治療の現実を直視することになった。「何もしなかったら数年で命が尽きるだろう」。帰り道で初めて交通事故を起こした。自分の車は衝撃でへこんだが、衝突した車はほぼ無傷で、相手はむしろ恐縮していた。

整形外科医志望からホスピスケアの道へ

実は人生において、もっと強く死を意識したことがあった。山崎は1947年、茨城との県境にある福島県東白川郡塙町に生を受けた。4人きょうだいの末っ子で、兄と2人の姉がいる。父は中学校の美術教師で3年おきに県内を異動し、一家で移り住んだ。中学は、父が校長として勤めていた学校に通った。学業は総じてできたが、体育や音楽など、その水準にないはずの科目まで通知表は「5」の評価だった。学校で人格者然としていた父は、家では高圧的で、そのギャップも嫌だった。「教師にだけはなるまい」。

県下有数の進学高校、県立安積高等学校(郡山市)に進み、建築家になろうと思った。高校2年までは三春町の山間部の自宅から、自転車で2つ山を超え、始発のバスで通学した。勉強時間が取れず、2年生から下宿をした。3年生の夏休みは高校で補習があり、下宿で朝食を取りながら新聞を読んでいた。サリドマイド禍の記事が載っていた。薬害で日本でも先天的なアザラシ肢症の子たちが生まれ、フィンランドの整形外科医が来日して矯正手術を施すという。衝撃を受けた。整形外科こそが自分の進む道だ。

担任教師に医学部受験の希望を伝えると、「浪人する気はあるか」と念を押された。現役では受からなかったが、父は支援してくれた。さかのぼると、父方の祖先には御殿医がいた。東京の予備校に2年間通った末、千葉大学医学部に合格した。都会へ憧れ、温暖な地という理由で選んだ大学だ。

激動の青年時代から光を見出した1冊

68年に入学した頃、千葉にも学生運動の嵐が吹き荒れていた。翌年1月の東大安田講堂事件を機に自らも身を投じることになり、春に千葉大学の本部校舎に立てこもった。夏休みに入り、ふと気が付くと1人抜け、2人抜け……急に怖くなって山崎も逃げた。それが、人生最大の挫折として刻まれた。夏が過ぎ、何ごともなかったかのように授業が再開された。「かつてボイコットした場に戻っていくのは堪えられない」。

生きている意味が見出せず、この世を去りたいと思い詰めた。故郷・福島に向かい、父と顔を合わせないよう実家の裏口から、母に旅費を無心した。母は何も言わずお金を差し出してくれた。温泉地の山中をさまよったが、母を裏切れないと、大学に戻った。

生きる自信を喪失したのに加え、整形外科で障害を矯正するという目的は、矯正困難な障害もあること考えれば、傲慢にも思えた。授業に出ず落第し、目指す医師像も見失ったが、とりあえず生きていくために潰しが効きそうだと外科の門を叩いた。大学と関連病院で修行を積んだ。学生運動は勢いを失いつつあったが、博士号を取らず、階層社会の頂点にいる教授の権限を削ぐというキャンペーンに共感していた山崎には、もはや大学病院にいる意味はない。地域医療の担い手になろうと決めた。忙しい現場に身を投じる前、1年間船医をしようと思った。

学生結婚をして子どももいたが、83年5月から3カ月北洋サケマス漁船に同乗し、11月から4カ月は南極の海底地質調査船に乗った。調査船の乗員は元来健康な人たちで、船医は時間を持て余す。持ち込んだ本の中に、エリザベス・キューブラー=ロスの『死ぬ瞬間』があった。200人の死にゆく患者との対話と、死の受容までに、否認、怒り、取引、抑うつといった段階があることが綴られている。その序章に描写されていた穏やかな死が、自分が経験してきた病院死と違うことに、山崎は薬害に遭遇した時以上の衝撃を受けた。自分の針路を指し示す光だった。当時日本では、患者にがん告知はされていなかった。高名な高僧でさえ衝撃で取り乱すというのが、まことしやかな根拠だった。陸に戻ると、山崎はがんを本人に伝え、無用な蘇生の“儀式”をしないよう努めた。「人生の最期が惨憺たる環境ではいけない」。

91年、乞われて聖ヨハネ会桜町病院のホスピス病棟の医師となった。2005年にはクリニックを開院し、在宅緩和ケアを展開し始めた。人生の要所で出会いがあり、信念で周りを巻き込み、文化を広めてきた。そして、予定通り自分ががんになった。ステージ4の、ささやかな延命を期待する標準治療には、副作用で生活の質を落としそうな抗がん剤しかはない。まだ、通常通り診療して、普通の生活が送れていた「この生活を長く保てる方法はないものか」。模索が始まった。(敬称略)


〈聞き手・構成〉ジャーナリスト:塚﨑 朝子

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