個人批判されぬ仕組み作りが必須
政府の新型インフルエンザ等対策推進会議の議長として、日本の感染症対策の〝頭脳〟となって来た尾身茂氏(74歳)が、8月末をもって退任した。内閣感染症危機管理統括庁が9月1日に新設される事に合わせた人事で、対策推進会議の後任議長には五十嵐隆・国立成育医療研究センター理事長(70歳)が選ばれた。前身である新型インフルエンザ等対策有識者会議から11年に亘って会長・議長を務め、この3年半は傘下の新型コロナウイルス対策を行う分科会の議長や会長として新型コロナ対策に当たって来た尾身氏。時に「殺人予告」迄来たという尾身氏↘の折々の言葉を紹介し、この3年半を振り返る。
世界各地で患者が確認される様になり日本で最初に新型コロナ感染症が確認されたと厚生労働省が発表したのは、2020年1月16日、世界保健機関(WHO)は1月30日、「国際的な緊急事態」を宣言した。2月3日には、多くの感染者が乗るクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」が横浜港に入港。同月13日には日本で初めての死者が確認され、新型コロナへの恐怖心は一気に高まった。
政府は新型コロナ対策本部の下に、対策専門家会議を設置。座長は脇田隆字・国立感染症研究所所↘長が務めたが、会議終了後の会見等で主に説明に立ったのは副座長の尾身氏だった。メディアにも積極的に出演し、専門家としての見解を伝え続けた。特に、密閉・密集・密接の「3密」を避けるという提言を行い、初期のコロナ対策を理論的に引っ張った事は評価が高い。「3密」はその後、WHOでも呼び掛けられ、世界の感染症対策に影響を与えた。
3月には東京五輪の延期が決定、4月7日には東京、大阪等7都府県に緊急事態宣言(後に対象地域を全国に拡大)。これらの重要な決定の際も、専門家として国民の不安や疑問に答えて来たのが尾身氏↖だった。緊急事態宣言解除後を見据え、5月には「新しい生活様式」を提言。尾身副座長は会見で「感染防御の基本、3密の回避とか、フィジカルディスタンス等の基本的な事を中心にやる。例えば職場や学校で、それぞれオール・オア・ナッシングではなくて、二者択一ではなくて、色々な工夫が出来る」と呼び掛けた。
ただ、尾身氏ら専門家の意見が常に政策に反映されたかというと、そうでは無かった。安倍晋三・首相(当時)は2月27日、全国の小中学校と高校、特別支援学校に3月2日から一斉休校を要請したが、尾身氏は国会で「効果がどれだけ有るかは分からない」と発言し、一斉休校が専門家会議の提言によるものではない事を滲ませた。
7月には専門家会議が廃止され、新たに新型インフルエンザ等対策有識者会議の下に対策分科会が置かれる形に。有識者会議の会長も務めていた尾身氏が、分科会でも会長に就いた。専門家会議が感染症の専門家で構成されていたのに対し、分科会には経済や法律の専門家も含まれる。8月の夏休みシーズンには、帰省等長距離の移動の是非が問題となった。尾身氏は分科会に先駆け、「お盆は日本人にとって特別な季節で、家族や親族が集まってお酒を含む会食の機会も有ると思うが、そこで高齢者に感染した場合には重症化し易い。大人数での会食は3密の状況が生まれ易いので避けて欲しい。それが難しい場合は帰省は出来れば控えて貰いたい」と呼び掛けた。
揺れる世論を背にリスク評価を全う
ただ、「自粛」ばかり呼び掛ける尾身氏らには、国民の不満も直接的にぶつけられる事になった。又、感染症拡大防止の観点からは「自粛」が最も有効な策だが、経済を回したい政府との意見の相違が表面化する場面も有った。
例えば、政府が観光振興策として打ち出した「GoToトラベル」事業を巡っては、菅義偉・首相(当時)が20年12月に、「移動では感染しないという提言も嘗てして頂いている」と発言したが、尾身氏はこれを否定。年末年始の帰省も、流行地域からの移動は自粛すべきだと発言した。更に同年12月25日の菅首相会見に同席した尾身氏は、「年末年始の休暇が終わると、社会活動が活発になって再び感染者が急拡大する可能性が極めて高い。今の時期に感染を下方にする為に出来る限りの事をする必要が有る」と、年始後も注意する様呼び掛けた。
延期を経て翌年に開催された東京五輪を巡っても、政府との不協和音が取り沙汰された。全国で新型コロナワクチンの接種が進んでいる事等を根拠に、五輪を開催して社会を正常化したい政府に対し、専門家はウイルスが変異を続けながら未だ世界で流行している事を警戒。五輪開催により、世界中から多くの人が日本を訪れると、感染が広がると指摘した。6月2日の衆議院厚生労働委員会で尾身氏は「今のパンデミックの状況で開催するのは普通は無い。こういう状況の中でやるというのであれば、開催の規模を出来るだけ小さくして管理体制を出来るだけ強化するのが主催する人の義務だ」と述べた。
6月18日には、分科会ではなく「専門家の有志」として、「無観客が望ましい」とする提言をまとめ、大会組織委員会と政府に提出。その後の記者会見では、当初は五輪の開催有無を含めて検討する様求める文言が含まれていたが、菅首相が開催を表明した事から削ったと内幕を明かし、「リスクを評価するというのが、我々の責任。我々の評価をどう採用するかは政府、主催者の責任。責任と役割が明らかに違う」と、提言は「材料」である事を強調した。これ迄首相の会見に同席し、専門家として意見を述べる等〝一枚岩〟と思われて来ただけに、提言には政府内から批判も巻き起こった。それでも、7月8日に開かれた国、東京都、組織委員会、国際オリンピック委員会(IOC)、国際パラリンピック委員会(IPC)による5者協議で、1都3県の五輪会場は無観客が決定。有志の提言が取り入れられた形となった。
次のパンデミックへの備えを促す
徐々に正常化して行く社会の中で、度々自粛やワクチン接種を呼び掛ける尾身氏には、ワクチン反対派や反マスク派からの攻撃も向けられた。職場に殺人予告が届いた事も有ったという。22年12月には、自らも新型コロナに感染した事を公表。ワクチンを5回受けていた為、反対派から「ワクチンには効果が無い」と揶揄されたが、激務が続いており、年齢的にも重症化し易い中、喉の痛み等の軽症で終わり、逆に「重症化を防ぐ」というワクチンの効果を知らしめた格好になった。
理事長を務めていた地域医療機能推進機構(JCHO)のコロナ専用病床に空床が多い、補助金で焼け太りした等、「尾身憎し」から批判が所属機関に飛び火した事も有った。批判が影響したかは分からないが、尾身氏はJCHOを離れ、22年から結核予防会の理事長となっている。
この3年半、中傷や批判に晒されても専門家として職務を全うしたタフさには、多くの医療者から感謝の声が聞かれる。自粛疲れが囁かれる中でインスタグラムで若者と対話し、批判にも耳を傾けた姿勢は並大抵の胆力ではない。ただ、政策を決めるのは政治家の仕事なのに、自粛等を呼び掛けた尾身氏を始めとする医療者が批判の矢面になった事には疑問も残る。個人批判を防ぐシステムを作らなければ、次のパンデミック時に同種の立場の引き受け手が居なくなってしまう。
最後に尾身氏が今年8月29日、首相官邸で岸田文雄・首相から労いを受けた後に記者の前で発した言葉を紹介しよう。「人間誰しも、喉元過ぎれば熱さを忘れる。平時にしっかり危機への準備をしておく事が重要だ」。正に名言だ。過去に学ぶ事をしない日本は、この言葉を嚙み締め、来るべきパンデミックに備えたい。
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