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是非を問われた安倍晋三元総理の国葬儀を検証

是非を問われた安倍晋三元総理の国葬儀を検証
閣議決定をして国が儀式を遂行する事は適当な行為

安倍晋三・元総理が銃弾に斃れてから早1年以上が経った。日本国内は元より世界中が驚愕した凄惨な事件であった。2022年7月8日の事件発生時は自民党を始め多くの政治団体や思想団体、メディア等の報道機関、学者や評論家らがその死を悼み弔意を表明した。その様な風潮は日毎に失われ、犯人が凶行に及んだ動機が明らかになり、旧統一教会と安倍氏との関係が報道されると一転してリベラル系の政治家や左翼系メディア等報道機関は姿勢を転換した。まるで鬼の首を取ったかの如く安倍氏の祖父にあたる岸信介・元総理に迄遡って旧統一教会との関係を糾弾していた。正に掌返しである。

国葬は55年ぶりの3回目

 政府は22年7月22日の閣議にて安倍氏の国葬儀を9月27日に日本武道館で行う事を決定した。政治家の国葬は吉田茂氏以来、55年振りになる。政府は国葬儀とした理由について憲政史上最長の8年8カ月に渡って首相を務めた事や国内外から幅広い哀悼・追悼の意が寄せられている事等としている。費用は全額国費で賄われた。中曽根康弘氏や大平正芳氏のケースは政府と自民党での合同葬儀だった。佐藤栄作氏は政府と一部の国民の有志によって負担する国民葬だった。これらの違いは時の政権によってその都度判断されて来た。

 第2次世界大戦以前には国葬令というものが存在し、法規定が為されていた。大久保利通氏や岩倉具視氏・伊藤博文氏・山縣有朋氏ら、皇族だけではなく多くの政治家の国葬が執り行われた。日本統治下の韓国の皇帝に対しても国葬で弔った。国葬令は現行憲法の施行前の1947年に廃止されている。

 では時の政権、今回は岸田政権で決定された国葬は法的な根拠の無いものなのか。決して政府が独善的に判断したのではない。2022年8月4日に浜田聡・参議院議員が提出した「国葬、国葬儀、合同葬儀の違い等に関する質問主意書」に対する答弁書で「国の儀式を内閣が行う事は行政権の作用に含まれること、内閣府設置法第四条第三項第三十三号において(中略)国葬儀を含む国の儀式を行うことが(中略)法律上明確となっている」と政府はその根拠を明らかにしている。よって、国葬儀は国の儀式として法の範囲内であると言える。閣議決定を根拠として遂行する事は法的に適当な行為である。

 江川紹子氏や朝日新聞など多くのジャーナリストやメディアが国会の議論を経ていない事を指摘し公費の使用に反対した。恰も民主主義に反するかの如くの論調だ。しかし、その様な指摘には当たらない。国会は国政選挙に於いて選ばれた者達によって運用されている。国会議員の中から閣僚を選ぶ議員内閣制も備わっている。その内閣が法規定内で決定した事であるから紛れもなく民主主義に則っている。

  又、安倍氏の業績から国葬儀を行うに値しないという意見も散見された。特に森友学園問題や加計学園問題をあげつらう論陣が目立つ。

  これらの問題は解明されていない点も有るのかも知れないが、こと安倍氏との関わりで言うと無関係であり、濡れ衣であったと言える。野党やマスコミが再三に亘ってその問題を糾弾して来たが、黒塗りで隠された行政文書の内容が明らかにされた事により、野党やマスコミの指摘が如何に的外れなものであったかが証明されてしまう結果になってしまった。黒塗りになっていた学校名に関しては野党やメディアは「安倍晋三記念小学校」だと言い続けたが、実際には「開成小学校」だった。黒塗りにされた財務省や近畿財務局に関与した政治家名は「安倍晋三総理と昭恵夫人」だと野党やメディアは繰り返し主張したが、開示されると「鴻池祥肇参議院議員と鳩山邦夫衆議院議員と平沼赳夫衆議院議員」だった。野党もメディアも自分達が憶測で主張していた内容と実際が違っていたらその事実を殆ど報道しない。報道したとしても自分達の主張に関連付けずに矮小化する。世論をミスリードした上で訂正せずに放置する。野党議員や朝日新聞や毎日新聞を始め多くの偏った論客達に安倍氏は名誉を毀損され、多くの侮辱を受けて来たという事だ。森友問題は理財局長であった佐川氏が事実をきちんと理解せずに国会で答弁した事により、答弁内容に即して公文書を改竄するに至った。実に単純なミスに起因していたに過ぎない。そもそも、例え安倍氏の意向が有ったとしても行政要件として適応していなければどうにもならない。公務とは規定による根拠に裏付けられた判断によって遂行されるに過ぎない。それを逸脱した場合は司法或いは警察マターである。森友問題を理由に安倍氏の功績を否定する事は根拠無く名誉を毀損し中傷している行為に他ならないのではないか。

 「国葬儀を強行すれば、安倍元首相を賛美するという効果をもたらす事にならざるを得ない。そうなれば表現の自由が冒され、民主主義が危機に瀕する事になるのは言う迄もない」という指摘も有る。今回の国葬儀の決定は岸田政権下の閣議において決定されている。国葬儀に反対するジャーナリストやマスコミは「政府」を「国」に置き換えて論ずる事で国家が表現の自由を制約するような言い振りである。これも野党やマスコミのミスリードであろう。政府は選挙で選ばれた政治家で構成されている。政府は民意が反映されて成立しているのだから政府の決定した事項によって民主主義が脅かされるという事はあろう筈がない。国葬儀の遂行と表現の自由など結び付ける事自体が馴染まない。

 「葬儀を国が主催すると国家の意思として当該個人への弔意を表すものとなり、思想・良心の自由(憲法第19条)に反する事になり、そうした傾向を助長する事になる」という指摘も有る。

 思想や良心の自由が有るからこそ、民主的に成立している内閣に於いて安倍氏の国葬儀を行う事が決定されたのだ。その事への反対意見を禁じたり、賛意を強要したりする事も無い。又、安倍氏への弔意を国民全員に押し付ける様な決定でもない。そもそも目に見えるものではない思想や良心を国が支配する事など不可能である。政府は国政選挙により選ばれている国会議員(民間議員も同様)によって承認されている。民主主義のプロセスに疑義を挟む余地は無い。

マスコミの論調が世論を誘導する

新聞各社の世論調査の結果を見ると各社共に反対が多い結果になっている。メディアの論調が反対一辺倒に近い状態である事が起因しているのだろう。恐ろしいもので世論はメディアの意向に沿って誘導出来る事を証明しているかの様だ。共同通信社のアンケート調査では賛成が45%、反対が53%。日経新聞社の調査では賛成が33%、反対が60%。文春オンラインに至っては賛成が16%、反対が79%である。各社にはそれぞれ独自の読者がおり、調査結果からそれぞれの個性も感じられる。各社は国葬儀の違法性や不合理を主張し反対をしている。

 国葬儀から1年、岸田政権は正念場に差し掛かっている。輸入物価等の上昇が国民生活に影響を及ぼしている。「資産所得倍増プラン」と言っていた矢先に防衛増税を持ち出したりもしている。岸田総理は安倍氏の一周忌に当たり「安倍氏のご遺志に報いる為に、先送りの出来ない課題の答えを出さなければならないとの思いで職務に努めて来た」と述べている。難民法やLGBT法の制定が喫緊の課題ではなかろう。安全保障問題こそが差し迫った危機ではないのか。次いで物価高に適う賃上げの促進も必要である。DX(デジタルトランスフォーメーション)やGX(グリーントランスフォーメーション)等新技術の社会実装も急がれる。重要課題は山積している。

 最後に国葬儀の遂行によって海外からも弔問客が訪れ外交上の益が有るという意見も有る。しかし、弔問を契機とした外交上の成果はあまり期待出来ない。国内外を問わず、敵味方や関係の遠近に関係無く、弔問を受け入れる事が節度というものであろう。葬儀の主旨は死者を悼む事である。葬儀を含む武家礼法は室町時代以降、今日の日本的儀式の基調になって継承されて来た。縁という抽象的概念を可視化したのが儀式である。そして、それが文化の基柱である。

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