医療法人いつき会
いつきクリニック一宮(愛知県一宮市)
内科医師
松下 豊顯/㊦
63歳で希少な血管内リンパ腫を発症し、寛解に至って1年余りが過ぎた。職場にも復帰し、永らえた命で患者に寄り添いつつ、マイペースで人生を楽しんでいる。
8クールの化学療法が奏功
2021年10月半ば、循環器内科医の松下は、息子が勤務する京都大学医学部附属病院の血液内科に入院した。1週間後には、血管内リンパ腫との確定診断が下った。翌日からすぐに、治療を開始することが決まった。80種類近くあるリンパ腫の中でも稀な疾患だが、B細胞由来のため、化学療法の「R-CHOP」というレジメンが有効だという。分子標的薬のリツキシマブ、シクロホスファミド、ドキソルビシン、ビンクリスチンと4種類の抗がん剤に、ステロイドホルモン剤(プレドニゾロン)を組み合わせる。症例数が少ないため比較対照試験ができず、確立したエビデンスはないという。担当医から細胞バンクへの検体供与を依頼され、快諾した。
息子に治療内容を解説してもらい、自分でも調べた。息子も循環器内科医だが、松下が病気になるまで、診療の話はほとんどしなかった。論理的に話してくれる息子が、とても頼もしく思えた。
治療に至るまでの半月、松下の体調はどん底だった。尋常でない倦怠感に襲われ、仰向けのまま身動きが取れなかった。食事を取るのもきつくなり、辛うじて呼吸だけは保っていた。治療初日はプレドニゾロンだけを投与する。すると、寝返りも打てなかったのが、スッと体が軽くなった。「嘘のようにつらさが消え、地獄から生還した思いだった。ステロイドの威力を思い知った」
たちまち歩けるまでに回復したが、そこから、副作用の大きい抗がん剤が待ち受けていた。支持療法と併用しつつ4剤を投与し、その後2週間体力の回復に努める。これを8クール繰り返す。経験したことのない、つらい副作用に見舞われたが、強く心に誓ったことがある。「医師として、希少な病気になった経験をきちんと書き残しておく義務がある」。
1クール目の入院中は、新型コロナウイルス感染症の強毒デルタ株が流行していた。当初は息子が2、3度病室に顔を見せたが、その後は自粛して、主治や看護師以外の入室はなかった。家族との面会もガラス越し、洗濯物も病室の外で看護師に託された。孤独だが、回復を信じ落ち込むことはなかった。2クール目以降は外来で行うため、京都の息子の家に寄宿して通院した。身内とはいえ、病気で自由の利かない自分が迷惑をかけることには、申し訳なさも感じた。
闘病記をブログとして執筆開始
退院すると、発症から初回治療までの日々について、頭の中の記憶を一気に掃き出し、パソコンに打ち込んだ。勤務先のクリニックのブログに闘病記を掲載してもらうようお願いした。それには、もう1つの重要な意味があった。瞬く間に体調が悪化したので、患者たちに事情を説明できないままだったのだ。
「私の健康状態に関わる問題により、診療を長期間休止せざるを得なく……(中略)……再び勤務への復帰を目指し闘病中でありますが、今日までの経緯をご報告……」と、患者に向け謝罪と経過報告の文書を作成した。ブログを始めると伝え、22年春の診療再開を願って結んだ。報告書は待合室に貼り出され、それから定期的にブログに寄稿した。「直接伝えることはできなかったが、自分が頑張っていることを患者さんに知らせたかった」
2クール目の化学療法を終えると、12月半ばに岐阜の自宅に戻った。その後は、日曜の晩から息子の家に泊まり、月・火・水と3日間の投薬を終えると、岐阜に帰宅した。血管内リンパ腫は脳に転移しやすいため、予防的なメソトレキセートの脊髄腔内投与や入院での高用量点滴療法もあった。使った薬のうち、深紅の注射剤、ドキソルビシン(アドリアマイシン)は、松下には懐かしい薬だった。1989年から2年間、名古屋大学環境医学研究所で研究に携わり、アドリアマイシンの心毒性を研究していた。その薬を自分が使うことになろうとは、何たる偶然か。6、7、8クール目ともなると、手足の痺れに悩まされ、筋力も落ちて手では字が書けなくなった。
2022年4月末、8クールを完遂した。治療の甲斐あって、5月の半ばのPET-CTや血液検査で、寛解と判定された。大きな安堵感に包まれた。17年に亡くなった妻の仏壇に手を合わせ、真っ先に報告した。「仕事に復帰して、患者さんとまた向き合えるかもしれない」。治療中の8カ月の間、代診医師を手当てしてもらったり、診療の負担をかけたりと、院長には迷惑をかけた。フルタイムの全面復帰は難しいが、体調と相談しながら、できる限り診療の場に戻りたいと思った。
足に後遺症が残るが診療に復帰
院長と相談の上、6月から週2回の勤務となった。それまで体力の回復に努めなくてはならない。妻が長らく肺がんで闘病しており、晩年は妻に代わり、2人分の食事を作るようになった。以来、レシピを見れば料理は自分でつくることができ、家事もすべてこなせるようになった。大好きなワインのグラスを傾ける、一人暮らしの穏やかな日常が戻ってきた。
3人の孫たちの成長は何より楽しみだ。ささやかな趣味は、病気の1年前から始めたバラ栽培。入院中は生け垣の手入れができなかったが、隣人が水やりをしてくれていたお蔭で枯れることもなく、季節ごとに花を付けて和ませてくれる。
久しぶりの外来は緊張したが、なじみの患者たちは松下の復帰を喜び、「大変でしたね」と気遣ってくれる。中には悪性リンパ腫を経験した患者もいて、気兼ねなく患者体験を分かち合える。闘病を隠しだてせず、本当に良かったと思えた。
週2回の勤務は疲労もたまらず、ほどよいペースだ。ただし、体調は完全に元通りとはいかなかった。両足の足首から下に知覚神経麻痺が残った。「自分の足で大地を踏みしめている実感がなく、義足を履いているようだ」
痛みや温度も分かりにくいため、けがや火傷には細心の注意を払っている。麻痺が強い左足は、つま先を上げることができず、スリッパを履くと脱げてしまう。病気の影響か、抗がん剤の副作用の末梢神経障害なのかは判然としなかった。京大病院に入院中からリハビリテーションを行っていた。寛解を得た後も違和感は消えず、根本治療もできないままでいる。幸い右足は動かせるので、車の運転に支障はないが、40代半ばまで趣味としていた山登りができなくなったのは、心残りだ。
とりわけ再発リスクが高いという2年間を用心しながら過ごし、その後も半年に一度のPET-CT によるフォローを継続している。人間はいつか必ず死ぬと悟り、死の恐怖は薄らいでいた。
「健康を失ってみて、健康であることすら意識せず送ってきた平凡な日常が、いかにありがたかったか。縁あって知り合った人には、病気も含めてつらい思いをせず幸せになってほしい」。心の底からそう願う。65歳になり、「自分の時間を大切にしながら、患者に還元する日々を続けたい」(敬称略)
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