宮地 正彦(みやち•まさひこ)
中東遠総合医療センター 企業長・院長・外科
留学先: Johns Hopkins大学医学部(1989年9月〜91年8月末)
期せずしての名門大学への留学
1989年9月に米国ボルチモアにある歴史あるJohns Hopkins大学医学部に留学しました。実はNebraska大学への留学が急遽キャンセルとなり、当時名古屋大学医学部第1外科助教授だった二村雄次先生のお骨折りによりJohns Hopkins大学医学部外科へresearch fellowとして留学することになりました。名古屋大学第1外科からJohns Hopkins大学への留学は今までなく、現地には日本人留学生もいなかったため、準備はすべて自分で短期間に行う必要があり、決定から1カ月ほどで、まずは単身で米国に渡りました。
Johns Hopkins大学には大学病院前のホテルに1週間の宿泊を予約してもらいましたが、チェックインの際、1週間で300ドルと聞いていた宿泊費が1泊300ドル(当時は1ドル=145円ほど)と言われ、早急に低額なホテルに移動することを考えました。その時、以前私が手術をした患者さんの紹介で留学前に英会話を習った米国人の牧師夫妻から、「困ったら連絡しなさい」とボルチモアに住むご夫妻(後に牧師さんと知った)の情報を聞いていたことを思い出しました。切羽詰まって電話をすると、「病院の周りは危険だから、家に来なさい」と言われ、非常に恐縮しましたがお言葉に甘えて7日間滞在させていただきました。この方にはアパートの予約、車の購入など本当に多くのことで助けていただきました。
ボルチモアの牧師夫妻は以前名古屋市で布教活動をされていたため日本語を話せましたが、私の滞在中は私には日本語を使いませんでした。さらに夫妻は会話の中で、YesではなくNoと答えないと正しい意味にならない多くの疑問文を提示し、私が質問に対してNoと言える練習をしてくれました。アメリカでの生活の基礎を教えていただいた7日間の滞在後、牧師夫妻宅からアパートに引っ越しましたが、家族が来てからも教会のサンデースクール、クリスマスの行事に参加し、貴重な経験ができました。
前任者がいない中、留学前の準備や留学直後の生活環境を整えることは大変でしたが、家族や牧師夫妻、周囲の方々に助けられました。この苦労によりアメリカでの生活の慣習を知ることができ、その苦労があったからこそ、2年間の留学生活を安全で有意義なものにすることができたと感謝しています。
Johns Hopkins大学での研究活動
Bulkley先生の研究室の同僚は、英国系アメリカ人、アフリカ系アメリカ人、パキスタン人、アイルランド人と私で、人種・宗教のるつぼでした。私が最年長で研究の経験もあり、器具の使い方、研究の準備などについて教えることもありました。
留学前は、名古屋大学第1外科で各種手術直後の消化器機能の回復について臨床例で研究していました。留学時は虚血再灌流におけるフリーラディカルの研究をすることになりましたが、帰国後はこの2つのテーマが交わることで研究テーマが広がりました。
Johns Hopkins大学では、実験は朝6時から始め、夕方には終わるようにしていました。夜間は大学病院内も危険で、院内エレベーターの使用も気をつけるように言われていました。私の在籍期間にも敷地内の駐車場で殺人事件があり、病院内で警察官に手錠され連れていかれる人を数回見ました。病院の近くでは、夜間に赤信号で止まることは危険だと警察官が言うほどです。留学生活は危険との隣り合わせであり、留学を終え、成田空港に着いた時にはほっとしました。
Johns Hopkins大学の医師はよく働きます。特に教授は朝早くから夜遅くまで働く人が多く、Bulkley先生も例外ではありませんでした。毎週金曜日朝7時からカンファランスが4時間ほどあり、1週間分の結果に対しBulkley先生がコメントを述べ、結果に満足しないとこうしたらいいとの助言が来ます。ここで、牧師夫妻に鍛えられた「Noと答える能力」が発揮されました。私はいつも同僚の数倍の結果を報告していました。その準備のため、前日は夜遅くまでデータ解析、資料作りをしていました。Bulkley先生の要望に対して私が「No, ……だから、それはしない方がいいです。今後このようにする予定です」と答えると「日本人だからYesと答えるべきだろう」と反論されましたが、英語力で劣る私を同僚らが助けてくれました。カンファランス後はみんなで昼食に行き楽しい時を過ごし、午後は早めに帰り、家族と過ごすことができました。週末は家族と共に近隣を旅行することもできました。
日米間での研究、医学生教育の相異
私の留学期間に、その後の医療を大きく変える2つの変化を体験しました。留学中フリーラディカルの研究でモノクローナル抗体を用いた病態の究明が急激に進み、この分野に高額な研究費が投入され、数年後には炎症性腸疾患に対するモノクローナル抗体を用いた臨床治療が始まりました。アメリカでは研究から実用化までの期間が極めて短いことに驚かされました。また、腹腔鏡下手術での胆嚢摘出術がJohns Hopkins大学病院を含む数病院で行われ、トライアル結果が米国外科学会で報告されました。良好な結果が出たため、その後多くの施設で行われることになりました。日本でも数年後には腹腔鏡下胆嚢摘出術が始まりましたが、日本ではトライアルを行わないまま多くの施設で開始したため、アメリカで重篤な合併症を発生することが報告されていたにもかかわらず、少なくない例数の重篤な合併症が発生しました。基礎及び臨床研究の進め方に日米間に差があることを実感しました。
戦争が生活、研究に及ぼす影響
留学中の1991年1月にアメリカ軍が湾岸戦争に展開。戦争はイラクで起きているので、戦時中でも海外にバカンス旅行する人もいて、日常生活に大きな変化はありませんでした。しかし、開戦翌日から大学での生活には異変が起きました。大学病院入館時のセキュリティチェックが、職員カードの確認のみから黒人以外の有色人種すべてにボディチェックと荷物検査が加わりました。研究室の同僚が人種差別だと抗議してくれました。正義感の強い彼は、現在はMemorial Sloan Kettering Cancer Centerのトップです。仲の良い同僚の技師からは「日本はなぜ何もしないのだ。Show the flag」と言われ、返事に窮したことを鮮明に覚えています。今のようにネットから情報を得られず、日本のニュースも見られないため、日本政府、一般の日本人の考えを知ることができず、じくじたる思いをしました。この経験から、行動を起こす時は相手に明確な意図が伝わるように努めています。また、戦争が始まるや否や、Bulkley先生から国からの研究費が急遽減額され、節約するように言われ、アメリカでは戦争を始めると研究活動に迅速に影響が出ることを知りました。
後にBulkley先生が来日された時、名古屋大学で私の食道癌手術を見学され、「素晴らしい手術をJohns Hopkins大学病院の外科医に示して欲しい」と言われましたが、私の手術は日本での標準的手術であり、人に誇れるレベルではないとお断りしました。そのように評価されたことはうれしく、その後さらなる研鑽を積んでその言葉に報いたいと思いました。
留学生活は日本で経験できない多くのことを家族と共に体験でき、その後の人生を豊かにしてくれました。留学時に出会った人たちに感謝しています。
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