①生年月日:1954年4月17日 ②出身地:埼玉県浦和市 ③感動した本:司馬遼太郎の書籍全般、中でもむしろ歴史上の巨人を主人公としていない『城塞』、『峠』、『花神』等 ④恩師:(故)木村幸三郎・(故)小栁泰久(東京医科大学外科学第3講座教授) ⑤好きな言葉:木を見て森を見ず。常に広い視野で物事を眺めたい ⑥幼少時代の夢:パイロット、指揮者 ⑦将来実現したい事:日本の国民皆保険制度について、医師及び患者にもっとよく理解してもらいたいと考えています。
幼き日の父との死別から波乱の人生へ
埼玉県の浦和市(現・さいたま市)の出身です。両親は東京生まれですが、母が関東大震災の1年前、父は震災の年に生まれ、両家とも偶然浦和に移り住みました。父方の祖父は銀行員、母方の祖父は経済学者でしたが、都心に通い易く、子供達の教育環境を考えて旧制高校や師範学校の在る浦和を選択したそうです。こうして父母は師範学校附属小学校(現在の埼玉大学教育学部附属小学校)で互いに知り合い、後年私も姉弟もそこに通う事になりました。浦和はJリーグの浦和レッドダイヤモンズの本拠地で、日本サッカーリーグの時代からサッカーが盛んな地域でした。私も、中学生の時はサッカー部に所属していました。
父は1945(昭和20)年に東大を繰り上げ卒業して軍医となり、終戦後東大分院に帰任し、その後東京医科歯科大学で学位を取りました。56年頃、父は浦和で開業したのですが、41歳、私が小学校5年生の時(65年)に直腸がんで亡くなりました。そこからが波乱の人生の始まりです。母は病院や不動産を売却し、その資金で家族の生活費と大学迄の授業料を賄いました。
海外留学への憧れから医学の道を選択
医学部に入ろうと考える様になったのは、中学生の頃からです。その理由の1つは、海外留学をしたかったからでした。明治・大正期の日本は、軍事と医学はドイツ、政治はイギリス、経済はフランスから学んだと言われますが、経済学者だった母方の祖父も大正時代にパリ大学に留学しました。その時に母へ送られた美しい絵葉書を見て、海外留学に憧れる様になりました。又、中学生の時から製図を描く事が好きで建築にも興味が有りました。霞が関ビルや京王プラザが建ち、70年代はいよいよ日本にも高層ビルの時代が来るという時代でした。しかし、幼い頃から絵が苦手だった私は建築家だった叔父から諭され、建築家になる道を諦めました。
高校受験では第1志望だった慶應高校に落ち、日大三高に進学しました。その挫折感から、高校時代は寂しさと充実感の混在する受験勉強一辺倒の3年間でした。
精神科からジェネラルな外科志望へ
73年東京医科大学(東京都新宿区)に入学し、浦和の自宅から新宿に通いました。クラブは、後に深い関りを持つ先輩・後輩と出会う切っ掛けとなる卓球部に入部しました。
私は元々人間の行動や心理に興味が有り、入学当初から精神科医になりたいと考えていました。東京医大の精神科教室には高名な加藤正明教授がおられ、4年生の時に先生の講義を受ける事が出来ました。ところが、5年生の時に国立精神衛生研究所へ所長として転任されてしまい、精神科への入局に迷いが生じました。婦人科や眼科、小児科など専門性の高い科ではなく、よりジェネラルに診る診療科の医師になりたかったので、選択肢は外科か内科でしたが、卓球部の先輩からの誘いも有り外科を選択しました。只、私が本来望んでいた診療科でない事は同級生の誰もが知っていましたから、周りから葦沢は直ぐに辞めるだろうと言われていました。
科学的精度の高さから宇宙飛行士に挑戦
79年外科学第3講座大学院に入り、同年教授に就任された恩師の故・木村幸三郎先生から大学院の研究テーマとして肝移植を勧められました。当時、東京医大病院の消化器外科では食道、肝臓、膵臓等のオペは殆ど行われておらず、消化管が主体でした。肝移植は先天性疾患である胆道閉鎖症の適応が多く、小児外科の範疇でしたが、我々の対象は肝硬変や肝臓がんでした。大学院3年目からは学位の研究を目的に愛知県がんセンターの放射線診断部に出向しました。丁度CTスキャンが普及し始めた頃で、超音波検査、血管撮影等の技術も向上していましたが、目覚ましく進歩していた宇宙航空技術に比べると、画像診断も満足の行く精度ではありませんでした。その様な時に宇宙開発事業団(現・JAXA)による第1回目の宇宙飛行士候補者試験が有るのを知り、大学院を中退して宇宙飛行士になろうと思い立ち受験しました。がんセンターの部長の推薦状を添えて願書を提出しましたが、結果は不合格。当時は未だ学位を取得しておらず、留学経験も無く研究歴も浅かった私には、願書の全てを埋める事が出来ませんでした。その時に合格したのが、毛利衛さんや向井千秋さんです。
83年東京医大に帰任後、肝細胞がんの画像診断の研究で学位を取得し、薦められた肝移植をテーマに若き日の夢であった海外留学(米国UCLA、英国ケンブリッジ大学)も果たす事が出来ました。
「木を見て森を見ず」を戒めに、保険診療の周知徹底へ
2000年以降の東京医大では様々な事が起きました。その1つが東京医大八王子医療センターで行われた生体肝移植実施による不祥事です。担当の准教授は退職、責任者であった教授は職務停止となり、准教授であった私が職務代行となりました。これは臨床研究ばかりにフォーカスが向けられ、患者ファーストの精神が欠如していた結果だと思います。又、保険診療のルールを十分に理解していなかった事を後になって痛感しました。
その後、八王子医療センターでは外科の改編が行われ、卒後臨床研修センター長であった私は卒前・卒後教育の充実を目指して総合診療科を開設し、教授に就任しました。結果的に、同級生の中で唯一、定年となる20年まで東京医大に残る事となり、それは大学卒業時私を含め誰も想像しなかった事でした。
15年厚生労働省の指導医療官として出向の要請を受けた事は、私の医師としてのキャリアを一転させました。そして、保険診療を正しく理解する事は、教育機関である大学に従事する医師として臨床・研究・教育と並び重要なミッションである事に気付かされる事になりました。現在は東京都健康長寿医療センターと東京医科大学病院で勤務をしながら、厚労省関東信越厚生局の保険指導医として医療機関の指導を行っていますが、決して利益相反の関係ではありません。両者とも、国民に安全で良質な医療を提供するという目標は同じだからです。保険診療の正しい運用は、医療の適正化と医療費削減、ひいては病院の収益増に繋がります。
しかし、医療機関の経営方針については各部門から異なる意見が起きる場合が有ります。これらは必ずしも医療機関全体の利益を考えた意見ではなく、各部門の利害を背景とした意見で、経営方針がまとまらない事が有ります。目前の問題に対して、その背景や全体像を見ない事で、正しい解決に至らない事が有ります。私は様々な事象に対して「木を見て森を見ず」という言葉を戒めとして、常に広い視野で物事の本質を見極める事を心掛けています。
インタビューを終えて
少年時代に人生の辛酸を経験した事がその後の人生に大きな力を与えるとはよく聞かれる話だが、その実践者がいた。医学界に身を置きながら、最高の技術が有る世界だと一度は宇宙飛行士を目指した。人生を懸けたチャレンジが叶わなかった事で多くの患者の命が救われた。大学と厚労省の二足の草鞋を履く難しさを飄々とこなして来た事は立派の一語だ。(OJ)
礼華 四君子草
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無休
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