岡崎ゆうあいクリニック(愛知県岡崎市)
院長
小林 正学/㊤
外科医としてがんの手術を多数手掛け、後に免疫療法のクリニックへと転じた。医師になって17年目、43歳のがん治療医を襲った甲状腺がんは、リンパ節に多数の転移があり、死を覚悟させた。
エコーを自分の喉に当てがん発見
2010年から院長として勤務していたセレンクリニック名古屋は、自費で行う免疫治療を中心とするグループの診療所である。小林は日々、再発・進行がん患者の切実な思いに向き合っていた。
19年に関連施設である札幌のクリニックが閉院し、行き場を失った超音波診断装置を小林が引き取ることになった。翌19年3月1日、診療が一段落した午後、装置の調整をしようと、プローブを自分の喉に当てた。外科医だった頃、乳がんと甲状腺がんの超音波検査を担当しており、おなじみの手順だ。しかし、モニターに映し出された画像を見やると、頭の中が真っ白になった。所々石灰化している病変が見えた。何度か試したが、どれも見慣れたがんの顔つきで、周囲のリンパ節にも転移があった。激しい耳鳴りがする中、手の平でパシパシと自分の頬を打った。「夢だ。覚めろ、覚めろ」。10分ほど続けたが、何も変わらなかった。
そこから理性的な医師の顔に戻った。幸い、近隣に甲状腺を専門とする診療所があった。スタッフに早退する旨を伝え、そのまま受診した。初対面の検査技師に「自分は甲状腺がんだ」と言うと、相手は笑顔で遮った。しかし、改めて超音波検査を始めると検査技師は無言になった。担当医は深刻な表情で言葉少なに、小林の診立ての通りだったと伝え、「手術はどこで受けますか」と尋ねた。超音波の画像を持参していた小林が医師と悟ったものか、説明は簡潔だった。自宅に近い藤田医科大学病院(愛知県豊明市)で受けたいと言うと、紹介状を書いてくれた。リンパ節転移は甲状腺周囲だけでなく縦隔部にも及び、短期間にできたがんではなさそうだった。がんは、小林にとって最も身近な病気だ。「2人に1人がなる。高齢になれば自分も罹るだろう」。母方の祖父は胃がんで亡くなっていた。しかし、少し早すぎた。
小林は1975年、米軍基地のある青森県三沢市に生まれた。3人きょうだいで兄と妹がいる。父は市役所に勤め、母は中学校で教員をしていた。子どもの頃から柔道に親しみ、プラモデルが得意だった。『スーパードクターK』や『ブラック・ジャック』等のヒーロー医師にあこがれた。中学時代に祖父ががんになり、無力感に打ちのめされたことが、医師志望を決定付けた。
地元の県立高校に進み、3年になって医学部を目指したいと担任に伝えると、早々に予備校を紹介された。結局2年浪人した末、富山医科薬科大学(現・富山大学)医学部に合格。高校を出て1年目は東京、2年目は京都で予備校生活を送らせてもらい、両親には感謝している。
三沢市のある医療圏は医療過疎地域である。両親は医師の息子が里帰りすることを期待していた。しかし学生結婚した妻が愛知出身で、小林は02年に医学部卒業後、名古屋市立大学の外科に入局した。東洋医学等にも関心が強かったが、「まず最先端の医療の限界を見なくてはならない」と、外科を選択した。
昼夜を問わず身を粉にして手術の腕を磨き、先輩たちが吹っかける無理難題にも付き合った。ほとんどの臓器のがんの執刀を経験した。当時は薬物治療も外科医が行っていた。術後の補助化学療法に加え、手術が叶わない患者には、診療ガイドラインの定める順に薬を切り替えて使った。細胞毒性のある抗がん剤が中心で副作用が強かった。「自分や家族ががんになった時、どこまで薬で攻める治療を行うだろう。他の治療も見てみたい」。医師になって7年目、乳がんでリンパ節に転移がある重症患者が、放射線治療を強く希望した。ガイドラインでは放射線治療の適用はなく指導医は渋っていたが、根負けして照射したところ、がんは見る見る縮小した。「ガイドラインとは一体何なのだろうか」。その出会いでメスを納める決断をした。“勤続疲労”もたまっていた。
外科の限界を感じ免疫療法に活路
日本癌学会に参加した折、「これからは免疫療法縮の時代が到来する」と力説していた医師の話が頭に残っており、体に優しい免疫療法にチャレンジしてみようと考えた。当時、免疫療法は怪しげな治療と思われていたが、可能性を広げたいと、セレンクリニック名古屋で仕事を始めた。人工抗原を用いた樹状細胞ワクチン療法は、がん患者の血液から免疫の司令塔である樹状細胞を培養し、患者の体内に戻して、がん細胞攻撃の目印とする。自由診療で、3カ月で200万円ほどかかる。
進行がんの患者と向き合うのはタフな仕事だが、小林は患者の声に熱心に耳を傾けた。エビデンスを確立し手軽に受けられる治療にしたいと多施設共同試験の結果をまとめ、米国がん学会で発表した。完全奏功に至る人は一部で、大半は進行を遅らせる等の部分奏功である。より進化したオーダーメイドの免疫療法にしたいと意欲的だった。
生来健康だったが、15年秋頃、高熱が続いた。解熱剤を飲むと滝のように汗が流れ熱は下がったが、体調は回復しなかった。大学の伝手で様々な検査を受け、サイトメガロウイルス感染による発熱や肝障害だと判明した。ありふれたウイルスの、いわゆる日和見感染は1カ月も続いた。それは後の甲状腺がんと無関係かも知れないが、免疫が著しく低下していたことは確かだ。
その頃の小林は、日々の診療で葛藤を感じるようになっていた。患者は藁にもすがる思いだが、高額でありながら不十分な効果しか出せずにいた。免疫チェックポイント阻害薬等が承認され、一部の免疫療法は保険で受けられるようになっていた。別のスタイルの診療を模索した末、“雇われ院長”ではなく、本格的な開業を検討していた。その矢先に突然のがん宣告。自覚症状はなく、喉元に触れても違和感はなかった。甲状腺がんの多くは、進行が緩やかで予後が良い乳頭がんだ。ただし確実にリンパに転移があり、悪性度の高い未分化がんの可能性もあった。当時、3人の子どもたちは6歳、4歳、2歳。妻には、診断されたその日に伝えなくてはならない。妻は元看護師だが、動揺を与えないように、夜にドライブに誘った。夫のがんを知らされてショックを受けたはずだが、「仕方ないわね」と治療に前向きだった。
それから4日後、妻と共に藤田医科大学病院を尋ねた。担当医は、「ここまで進行しているケースは珍しい」と率直に告げた。手術は12時間かかるという。声が出なくなる確率は2〜3割、もし反回神経のリンパ節に浸潤して切除不能な場合、気管チューブだけを挿入して閉じる……最悪の場合を説明され打ちのめされた。手術は4月25日と決まった。まだ1カ月以上先である。「がんになったがん治療医として、今できることはないだろうか」(敬称略)
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