——泌尿器科を専攻された経緯についてお聞かせ下さい。
頴川 学生の頃は、ピンポイントで泌尿器科を目指すという意識は有りませんでした。今とは違い、卒業と同時に入局する時代でしたが、医学部6年の夏を過ぎても入局先が決まりませんでした。秋になり、たまたま点けたNHKのドキュメンタリー番組で腎臓移植が取り上げられていたのを見て、心が動きました。腎移植であれば泌尿器科、それならば北里大学が良いだろうとアドバイスを頂き、ようやく方向が決まりました。当時、北里大学ではレジデント制度というアメリカの研修制度を導入しており、そこで学ぶ事になりました。当然ながら初めから腎移植が出来る訳はなく、最初に受け持ったのは末期の前立腺がんの患者さんでした。この時は、最終的にこれが自分の専門になるとは、夢にも思いませんでした。腎移植を志し3年を過ごしましたが、チャンスは中々巡って来ません。今は臓器移植法が施行され、死体腎移植も増えてきましたが、当時は生体腎移植が一般的で数も多くはありませんでした。移植腎が無いと始まらず、痺れを切らしながら更に数年が経つと、北里大での師匠である小柴健先生からアメリカへの留学を勧められました。折も折、沼津で診療所を開業していた父が体調を崩し、そろそろ戻って来て欲しいと頼まれていました。師匠からの激励を受けて送り出されながら、心の中では煩悶し、個人的に出した結論は1年だけ留学、その後なんとか言い訳を探して帰国というもの。父は息子の為に診療所を改築する準備を進めており、その図面を握り締めながらヒューストン(ベイラー医科大学)に向かったのでした。
泌尿器科が花形の米国で一流の臨床・基礎を経験
——ベイラー医科大学の泌尿器科に留学されました。
頴川 小柴健先生から紹介して頂いたピーター・スカルディーノ先生は、当時、アメリカの泌尿器科学会で飛ぶ鳥を落とす勢いの方でした。元々アメリカでは前立腺がんの罹患率が高く人種差が有ると言われていました。この時日本では胃がんが最も多く、前立腺がんは未だ10位前後でした。
——アメリカの医学界で前立腺がんが花形と言われるのは、患者数が多いからなのでしょうか?
頴川 前立腺がんは、基本的には年齢が高い方の病気で、国のトップの方がよく罹る事からも名が知られています。勢い泌尿器科は国家予算で大型研究資金が付く事の多い重要分野でした。又、「all for one」のアメリカでは、全研究者に研究費を細かく配分するのではなく、有望と思われる分野に一挙に数十億円という研究費が与えられます。当時、この「分野」の1つ目がエイズで、2つ目が前立腺がん、つまり、前立腺がんの臨床・研究はオリンピックで例えると陸上の100m走に当たる正に花形だったのです。これには驚きました。
——前立腺がんの道に進む心が決まったのですね。
頴川 結局アメリカには3年半滞在する事になりました。私がいつまでも帰国しなかった為、遂に実家の診療所は弟が継ぐ事になりました。この留学の間、前半はスカルディーノ先生の下で臨床研究を行いました。先生は超一流の臨床家で、世界中から多くの患者さんが訪れていました。後半はティモシー・トンプソン先生からの幸いにも熱烈なお誘いに従い、分子生物学研究を行いました。非常に聡明な方で、米国立がん研究所のSPORE(専門研究プログラム)の巨額な助成金を受けた1人です。先生の口癖は「泌尿器科医は手術ばかりで、少しも腫瘍の生理が分かっていない、分かろうともしない」であり、基礎研究の重要性を教えて下さったのでした。今から思えば、図らずも領域トップの先生方の下で学べた事は、運が良かったとしか言い様がありません。小柴先生が繋いで下さったご縁の不思議を感じます。
アカデミズムの実践を目指して教授に就任
——帰国されてから心境に変化は有りましたか?
頴川 自分の目指す方向がすっかり変わっていました。ベイラーの医局で私は2つの大きなインパクトを受けました。1つ目は彼の地のデイベート文化そのものです。あるトピックに対して、様々な角度から盛んに科学的なディスカッションが行われていました。これを本当に皆でやっている。いささか極端ですが、当時の日本では、教授が「太陽は西から昇る」と言えば、医局員は「そうだよな」と納得する、それで決まりという風潮が有りました。論文、学会発表等での新知見の如何に関わらず、疑念も抱かず先輩のやる様にやる事が至上であったのです。彼の地では活発に科学データというエビデンスを比べて議論する、更にはその結論に裏づけられ根拠に根差した実地臨床に目を見張ったのでした。もう1つは、泌尿器科の教室に大きく立派な研究室が有り、レベルの高い基礎研究による進歩が担保されていた事です。休む事なく稼働する工場の様に自らエビデンスを構築する努力がなされていたのでした。この「超一流の臨床」、「眩いばかりのアカデミズム」に強い憧れと夢を抱き、これが本物だ、出来る事なら自分の手でこれを実現したいと願う様になったのです。私が教授を目指そうと思ったのも、この為でした。
——47歳という若さで教授に就任されましたが「絶対的存在になった」という実感は?
頴川 東京慈恵会医科大学(慈恵)は歴史の長い大学ですから、その様な風潮が全く無い訳ではありません。が、個人的には貧乏性も有ってかご質問の様には出来ません。私達は良い医療を目指していますが、医療は1人で行うものではありません。当然、トップとして高度な治療技術、知識経験を持っていなくてはいけませんが、仮に同様の技量を持つ者を10人育成出来れば、数十倍優れた医療を展開出来る。それがチームの実績、自信として積み上がって行くし、昨今とみに重要性を増す医療安全のゴールも達成出来る。足し算、引き算をして、チームのメリットを最大にして行く様心掛けるのが教授であろうと思うのです。明治時代には洋書は貴重で、アクセス出来る者はほんの一握りだけでした。洋書からの知見を、教授が皆に教えを垂れるという形で指導していました。今は誰でも至って容易に最新情報を得られる時代です。最早「太陽は西から昇る」式のやり方は通用しませんし「絶対」は無いと思います。教授の役割、求められる資質も大きく変わって来たのです。
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