日本赤十字社和歌山医療センター
循環器内科 嘱託医師
岡村 英夫/㊦
2017年8月、岡村は国立病院機構和歌山病院(美浜町)に着任した。国立循環器病研究センター(国循:大阪府吹田市)に勤務していた1月に、進行性の神経難病、脊髄小脳変性症と診断された。ペースメーカーなどの植え込み術の第一人者だったが、手術ができなくなり、早期に国循を離れる決断をした。「十八番は奪われたが、医師、それも循環器内科医を続けられ、本当にありがたい」
地域医療に注力し専門書執筆
故郷に戻り、和歌山市の実家の近くに移り住んだ。居室は2階だが、まだ階段の昇り降りに支障はなかった。病が明らかになってから、スイスやイタリアを旅行した。「今行けるうちに行きたい」と、家族にわがままを通しての1人旅だった。
和歌山病院までの50kmほどはマイカーのハンドルを握った。循環器内科のトップと言っても、“1人医長”で、外来、入院と幅広く患者を診た。国循に比べると、少しゆったり時が流れていた。週末に講演で飛び回ることもなくなった代わり、自宅で健康診断の心電図の読影を手伝った。
岡村は教育に情熱を抱いていた。かつての勤務先である日本赤十字社和歌山医療センター(和歌山市)で月に1度、若手医師たちに自分の取得した心電図読影技術を教える機会も得た。教壇に立つ夢はもう叶わないかもしれないが、自分が吸収し実践していたことをまとめたいと思った。オフの時間を執筆に充て、自身2冊目の著書となる医師向け書『ひとりでマスター 心臓ペースメーカ植込み術』(メジカルビュー社)を、まず18年2月に上梓した。
病の進行を緩やかにするという「タルチレリン水和物」(一般名)の服薬は続けていたが、病は予想していた以上のペースで進行した。脳神経の萎縮が進むにつれ、少しずつ動作や会話に支障をきたすようになった。「朝起きると、ネジが1本外れたように、昨日できていたことが、1つずつできなくなっていった」
短い言葉は聞き取ってもらえたが、込みいった説明をしなくてはならない時は、タブレット端末に打ち込むことにした。親身に診療を行い、患者の評判は高かった。同僚たちと月に1度、好きな酒を酌み交わす楽しいひとときもあった。
あえて闘病を公表するつもりはなかったが、隠そうとも思わなかった。19年1月にNHKのニュース番組の取材を受け、2月初め、5分間ほどだったが、難病と闘いながら、医師の使命を果たす岡村の姿が全国に放送された。放映後、全国から励ましの手紙が届けられ、大きな励みとなった。
しかし病は容赦なく、少しずつ岡村の自由を奪っていった。放送のあったころからは、安全面を気遣う和歌山病院の指示で運転を控えるようにし、3カ月ほどタクシーで通勤した。5月からは1階の部屋に移り住むことにし、両親に同居してもらった。院内では、途中から旅行用のキャリーケースにもたれながら移動していたが、もはや車椅子に頼らざるを得なくなった。それでも病院から個室を用意してもらうなど、少しでも勤務がしやすいように配慮してもらっていた。
その月、一般向け書『知って安心!不整脈パーフェクトコントロール』(法研)を刊行。夏には車椅子に乗って、新築移転した国循を1人で訪れ、かつての仲間たちと旧交を温めた。
脳神経内科の同僚から、「歩けなくなることは重要でない。先生の能力は制限されないから、あまり怖がらなくていい」と助言されていた。しかし岡村は、自分が臨床現場で働ける期限を悟り、20年3月に退職した。和歌山病院には、環境を整えてもらい、2年半の勤務を全うでき、感謝の気持ちでいっぱいだった。そしてその春、息子が、岡村の母校、広島大学医学部に入学した。岡村が発症当時には反抗期で、親の病に無関心な素振りだったが、後を追い同じ道を歩き始めたのだ。
自立生活を送り子どもの成長を見守る
退職した岡村は、家族の暮らす実家に近いマンションで1人暮らしを始めた。宅内にはドアノブがなく引き戸で、車椅子で移動しやすい。言語療法に通い、理学療法士には、訪問で歩行などのリハビリテーションを受けているのに加えて、日常生活動作のすべてがリハビリとなっている。
同じ年の8月、看護師向け書『なんかヘン!? がわかる心電図の第一歩』(南江堂)を出した。心電図を読影する仕事は続けている。春先の健診のシーズンなど、多い時は週に200件以上を読む。スクリーニングで疑わしい所見を見つけたら、印鑑で印をつけ、ラベルライターで打ち出したラベルを貼る。読影はすぐにできるが、印鑑を押しラベルを剥がして貼る動作に時間がかかる。それもリハビリの一環だ。調理は難しいが、家族が作った食事を一口大にしてもらえば、自分で食べられる。自分で洗濯機を回し、ベランダに干す。
穏やかに流れる日々の中で、「もうしばらく自立した生活が送りたい」と考えるが、病の進行で不安要素も出てきた。22年秋ごろから自律神経の制御が不安定になり、食後やシャワーの最中に血圧が急降下することがある。足に弾性包帯を巻くなどの工夫をし、昇圧薬も服用してみたが、今度は血圧が跳ね上がった。何回か浴室で失神して倒れ、発見した家族を慌てさせた。そこで用心のため、毎日のシャワーの時だけ訪問看護に来てもらうことにした。
教育への熱意は衰えていない。できれば、医療系の学生に病気である自分の姿を見てもらい、学んで欲しいと考える。「ある病気を一度でも見たことがあるのとないのでは、見方が変わる」。23年春、医学部4年生になった息子は、将来は岡村と同じ循環器内科、もしくは脳神経内科に進みたいとの希望を口にするようになった。娘も、自分が立てた目標に向けて東京の大学に進学し、家を離れた。家族以外には、自分の発する言葉を理解してもらいにくくなったが、子どもたちと語らい、成長を見守るのは何よりうれしい。「人生は諸行無常、いつ何があるか分からない。好きなことをして欲しい」
病の宣告から6年の月日が流れた。当初、同じ仕事が続けられないのなら、どんな病気も一緒だと考えていたが、突然命を奪われることもなく、そう悪い病気になったと考えないようになった。「病気をせず次の目標に向かったとしても、思い通りになったとは限らないし、やり残しがない人生はない。次にバトンをつなぐことが大切だ」
初期は数カ月単位で悪化していたが、最近は数週間から数日単位で体が衰えるのを自覚する。いつかは寝たきりになる日が来るが、そこにまだ乗り越えなくてはならない壁があると感じる。延命は望んでいないが、自殺だけはしたくない。病に負けた気がするからだ。長い闘病経験から、人に頼ることを覚えた。家族、そして、介護保険など行政の力を借りながら、「できるだけ自分らしく過ごすこと。生命ははかないが、時として強い」(敬称略)
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