東京慈恵会医科大学 准教授 脳神経外科学講座
先端医療情報技術研究部(兼任)
高尾 洋之/㊤
脳神経外科医として外来や救急対応を手伝いながら、臨床現場で得た経験を生かした医療とICT(情報技術)をつなぐシステム開発のフロントランナーとして、八面六臂の活躍をしていた日々。43歳の高尾を突然襲ったのは、重症の神経疾患だった。
2018年8月、猛暑の中で、夏休みもそこそこに仕事に追われていた。14日の朝、いつも通りベッドから起き上がろうとしたが、足がもつれ、そのまま床に転んだ。気が付くと、左足が動かせない。脳神経外科専門医として、多数の脳卒中患者や麻痺を生じた患者を診てきた経験に照らし、自分の身にただごとならない事態が起こっているとすぐに察した。
幸い、両手も頭の働きにも問題はなさそうだった。中枢神経のダメージはなく、異常は末梢神経だと感じた。原因は何だろうといぶかしみながら、家族が救急車を呼んだ。直後に、勤務先である東京慈恵会医科大学病院(東京都港区)の救急室に電話を入れ、これから向かう旨を告げた。一刻を争う病状かもしれないし、十分な診断が付かず高次の救急病院に転送されることになるのは避けたかった。
救急室では、なじみの神経内科の面々が待機していた。早速、画像検査など、一通りの検査が行われた。高尾自身も、自ら開発した遠隔医療システムで共有したMRIの画像を覗いたが、何ら異常を示す所見はなかった。しかし、依然として左足は動かせない。原因不明のまま大事を取って、経過観察のために入院となった。
ICT医療の旗手として臨床の課題を解決
高尾は1975年、葛飾区で代々建築関係の仕事を営む家に長男として生を受けた。大病で入院したのは、3歳の時以来だ。当時の記憶はあいまいだが後から聞かされた話では、激しい腹痛に見舞われ、近所の慈恵医大の青戸病院(現・葛飾医療センター)に運ばれた。CTは普及しておらず、盲腸(虫垂炎)だろうと診断され、虫垂切除術を受けた。結果的に虫垂炎でなく膵炎だったが、手術で命を救われたことが、後に医師という職業を選ばせる理由の1つになっている。
獨協高等学校に進学し、大学で物理学を学ぼうかと考えていたところ、隣の席で仲が良かった友人が医学部志望だという。幼時の思い出もあって、高尾もその道を目指すことにした。家業もあったが、両親は高尾が好きな道に進むことを後押ししてくれた。1浪の末、慈恵医大に合格。「病気を診ずして病人を診よ」という、建学者の高木兼寛の精神に貫かれた医学教育を受けた。
大学6年生の春、父が脳卒中で倒れた。偶然、高尾が脳神経外科で臨床実習をしている最中で、父を慈恵医大に運び入れた。くも膜下出血と判明し、緊急で開頭してクリッピング術を施すことになった。医学生ながら、高尾も手術室に入り父の治療を見守った。元々外科ならば脳神経外科に進もうと考えていたこともあり、2001年に医学部を卒業すると、誘われるままに脳神経外科に入局した。
高尾はパソコンはお手のもの、ICTへの関心は高く、大学院では頭部外傷シミュレーションソフトの開発を手掛けるなど、ICTの医療応用の可能性を広げていった。13年から医療関係者間コミュニケーションアプリ「Join」の開発などをスタートさせ、15年には先端医療情報技術研究講座を立ち上げて講座長となった。遠隔医療など、日々の臨床現場での課題に対してICTを駆使して解決を探る、“二刀流”の医師となった。
病魔が襲ったのは、それから3年余り後だ。左足単麻痺で自院に搬送された。その日の午後は病室で過ごしたが、左足以外にさしたる異常はなく、食事も普通に取った。夜11時過ぎ、いつものテレビニュースを見ている最中に、次の異変が生じてきた。どうしようもない不快感や嘔気に見舞われ、ナースコールを押した。日付けをまたごうという夜半のこと、そこから記憶は途絶えた。
4カ月後に覚醒するも動くのは目のみ
次に目覚めたのは、集中治療室(ICU)のベッドの上だった。4カ月の時が流れ、12月に入っていた。麻痺はほぼ全身に及び、気管切開されて人工呼吸器が装着され、言葉を発することはできない。自分の意志で動かせたのは目だけだった。ナースコールを押した日以降、目を開いた覚えはあるが、鎮静薬のためか長時間目覚めていることはできなかったようだ。意識がはっきりするにつれ、意思表示はできずとも、病室での会話が理解できるようになり、状況が飲み込めてきた。
病名を尋ねることはできなかったが、ギラン・バレー症候群という確定診断が付いていた。急速に進行する稀な神経疾患で、末梢神経が障害されて四肢の筋力が低下、深部反射が消失する。神経麻痺が呼吸筋に及ぶと、呼吸麻痺が進み自発呼吸ができなくなるなど、重症化する場合がある。自己免疫疾患で、感染をきっかけに起こる。脳卒中疑いの患者に紛れているため、高尾も遭遇したことがある。ただし抱いていたのは、概ね軽症で数カ月もすれば発症前の生活に戻れるという楽観的なイメージだった。
ICUにいた日数を知り、動かぬ体という現実を直視すると愕然とした。命をつないでいるのは人工呼吸器と経管栄養だった。ギラン・バレー症候群の7割は軽症なため、国の指定難病に認定されていない。高尾は重症だった。自発呼吸が失われると死に直結し、致死率は数%だが、入院していて適切な処置を受けられたことが命を救った。確定診断には特定の抗体を調べる必要があり、血液は臨床経験が豊富な近畿大学に送られていた。高尾の妻も医師である。家族の同意を得て、抗体を取り除く血液浄化療法(血漿交換)が6回も施され、治療中は肺炎を繰り返し発症したという。
かつて忙しく歩き回っていた自分の病院に、今は横たわるだけ。命あっての物種とは言うが、過酷な現実だ。進行性の疾患でないので希望は持てたが、回復への道のりは始まったばかり。未曾有のコロナ禍が待ち受けるとも知らず、復活を期してリハビリテーションがスタートした。
2019年春、病床で見たテレビニュースで、ペルーで蚊の媒介でギラン・バレー症候群が大量発生し、死者も出ていると報じていた。高尾が自らの病気の原因として思い当たったのは、発症1週間前に会食した際、加熱が不十分と見られる鶏肉があったことだ。先輩医師も高尾も直後に下痢を起こした。生の鶏肉が汚染されやすいカンピロバクターにヒトの末梢神経と似た成分を持つものがあり、ギラン・バレー症候群のリスクもあった。
後の祭りと言えばそれまでで、悔やむ思いもなかった。後悔したところで、その時点に戻れるわけでも治るわけでもない。「自分はどん底にいるが、ここから先は回復への登り坂だけだ」。(敬称略)
〈聞き手•構成〉ジャーナリスト:塚嵜 朝子
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