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第71回 医師が患者になって見えた事 精神科医を襲った人生4度の大うつ病

第71回 医師が患者になって見えた事 精神科医を襲った人生4度の大うつ病

医療法人幸啓会北本心ノ診療所(埼玉県北本市)
院長
岡本 浩之/㊤

岡本 浩之(おかもと・ひろし)1978年奈良県生まれ。2003年東京大学医学部卒業後、同精神神経科入局。獨協医科大学病院で研修後、埼玉県済生会鴻巣病院などを経て、2011年診療所を開院。

地元の名門校から東京大学医学部に進学。子どものころから長距離走も得意だった。精神科医になり30代で開業し、最近はSNSなどでも精神疾患について助言する。人もうらやむ人生にも見えるが、実はずっとうつ病を抱えており、4回の大きなエピソードに見舞われている。

成績至上主義の両親と優れた兄との葛藤

岡本は1978年、古都・奈良市で生を受けた。父は経営学を専門として大学で教鞭を執り、母も岡本が誕生する前は中学教師をしていた。大学受験で挫折を覚えたトラウマもあってか、父は「勉強こそがすべて」という考えの持ち主だった。

岡本は、自己肯定感の低い子どもだった。3歳上の兄は勉強ができ、体格にも恵まれて陸上競技に長け、文武両道のまぶしい存在だった。悪い成績を取ると、父は岡本を叱責した。小柄だった岡本はいじめに遭い、小学校の帰り道に兄の同級生に暴力を振るわれたこともあった。当時は兄弟仲が悪く、兄に相談することは一切しなかった。

岡本は中学で東大寺学園に進学した。奈良県でトップの進学校だが、全国にはもっと偏差値の高い学校もあるという父を納得させられなかった。兄は県下2番目の中高一貫校にいた。中学生になった岡本は、体格が生かせそうな長距離走に打ち込み、競技大会の選手に選ばれた。しかし試合当日、過度の緊張からレース半ばで嘔吐して棄権した。トラウマから落ち込みが続き、嘔気や食欲不振、不眠に見舞われた。精神科医として振り返ると、最初の大うつだった。

母に連れられて小児科を受診したが、医師は「病気ではないから、乗り越えなくてはダメだダメだ!」と強い口調で怒るだけだった。「自分は弱いから、我慢しなくてはらない」と考えて、それ以上誰かに相談する気にはなれなかった。父は相変わらずで、物を投げる、座っている椅子を蹴る……といった形で手も出してきた。兄はそれを受け流し、時には強く反抗した。間に立つ母はうろたえ、憔悴した。岡本は、自分も逆らえば母が死んでしまうのでないかと不安で、さらに自分を追い込んだ。

兄は負傷で陸上競技での大学進学を断念し、一時大荒れしたが、学校推薦で遠方の医学部に進学が決まった。一族で最初の医師となる道筋がつき、両親は溜飲を下げたようだ。それも岡本にはプレッシャーで、高校では陸上を封印し、逃げるように勉強に打ち込んだ。気分の落ち込みは続いていたが、医者には治せないと諦めていた。その裏返しで、不調の理由を突き詰めるために医学部に進みたいと考えるようになった。

高校に上がると、全国の模擬試験で1番になった。父は、「合計点でトップでも、科目ごとには1番ではない」と不満を口にした。やっかむ同級生の陰口も耳に入った。3度1番になったが、父に「お前は甘いから、必ず失敗する」と言われ続けた。1番を維持するのが容易でないことは、岡本自身が1番よく分かっていた。そんな中、2度目の大うつのエピソードにさいなまれた。

両親は他人の気持ちを汲むのが苦手で、「東京大学は理科三類以外は誰でも簡単に入れる」と広言して、周囲のひんしゅくを買っていた。岡本は重圧に押し潰されそうになり、落ちたら自殺する覚悟で勉強漬けの日々を過ごし、1997年に現役で東大理三に合格した。

親元を離れた下宿生活は心穏やかだった。医学部の陸上部に入り1年ほどして体力が回復し、走る楽しみが戻ってきた。その矢先、右太もも裏に肉離れを起こした。強い焦燥に駆られ、しっかり治そうという心のゆとりがなかった。2年生になったばかりの春、19歳の岡本を3回目の大うつが襲った。

自分でも精神疾患ではないかと薄々考えていたが、弱さをさらけ出す羞恥心から誰にも相談できず、近所の精神科を受診した。医師は親を呼ぶように告げたが、帰省さえしておらず、できない相談だった。初めて抗うつ薬を処方された。処方内容は覚えていないが、服薬初期に嘔気や下痢が強く生じ、耐えかねて勝手に服薬を中断した。親に内緒で治療費をアルバイトで捻出していたが、受診する意味を見失い通院もやめた。うつうつと半年間ほとんど大学に通わなかった。追試を受け全科目ギリギリの成績で留年を免れた。高校時代に模試で1番だったことは医学部の同級生も知っており、「落ちぶれた」「偏差値は半分以下になった」と揶揄された。

病歴を丹念に聞き取る精神科医を目指す

兄弟揃って医学部に進み良いこともあった。医療系学部の陸上競技会に共に出場し、夜は語り合った。すべてが自分より上と岡本は妬んでいたが、兄なりに努力し苦労もしていた。数学が苦手な兄は高校3年時に解けない問題があり、父から「弟に教えてもらえ」と一喝され、岡本がそれを解いた。弟が目障りだったはずだが、兄弟は打ち解け腹を割って話す仲となった。兄は一足先に医師となった。

岡本も5年生になると、専門を決めなくてはならなかった。陸上競技に慣れ親しんでいたことで候補に挙がったのが、整形外科でスポーツドクターになる道。もう1つ、精神神経科にも強い関心があった。実習での病歴聴取時では、家系、親の性格、出生前後の状況、発育の過程、その後の人間関係などを、こと細かく聞いていた。「体の病気だけでなく人間全体を診ようという姿勢は、どの科に行っても大切だ」。2つの科で6年時に1カ月ずつ実習し、最終的に精神神経科に決めた。

卒業時、また親と一悶着あった。東大イコール研究者が既定路線と考える両親は、大学院に進まず、開業を志していた岡本が許せなかった。しかし、岡本は反抗を貫いた。2003年に卒業すると、母校の精神神経科医局に入局。程なく、交際していた女性と結婚した。

獨協医科大学病院(栃木県)で研修した後、精神科救急病院を経て埼玉県内の病院に移った。見知らぬ土地での生活でも妻の支えがあり、後に生まれた息子たちの成長も励みとなった。埼玉での4年間で、県央地域の精神科医療が充足していないと感じ、北本市での開業を決めた。

医学部卒業後、大過なく6年の勤務医時代が過ぎた。ランニングも再開し、フルマラソンを完走するまでになった。ただし、月のうち半分は当直するような激務では開業準備もままならず、09年に栃木の病院に移った。翌10年春、長らく闘病していた母が亡くなった。

長年の過重労働が心身を蝕んでいたことも加わり、その年の秋からから眠れない日々が始まった。同僚に睡眠薬を処方してもらったが、心は休まらなかった。31歳の岡本は、生きることに耐えられなくなり、自分を抹殺したいと考えるようになった。病院が休みの日は、医局に人気が少ない。黙々と荷物を整理し、書類をシュレッダーにかけるために、日曜日も職場に通っていた。(敬称略)

〈聞き手・構成〉ジャーナリスト:塚﨑 朝子

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