安達 知子(あだち•ともこ)
社会福祉法人 恩賜財団母子愛育会
総合母子保健センター愛育病院 名誉院長
東京女子医科大学医学部産婦人科 客員教授
PERSONAL DATA
留学先:ジョンズホプキンス大学 留学期間:1985年6月〜86年12月
米国生活の始まり
この見聞録では、米国生活の中でインスパイヤされた経験を中心にご紹介します。
卒後8年目に入った1985年6月初旬に、夫(心臓外科)の米国留学に2週間遅れて5歳と3歳の子どもを連れてメリーランド州ボルチモア市に参りました。渡米までの半年間は学位論文となる研究の集大成の時期で留学の申請も試みずに出国しましたが、それでもジョンズホプキンス大学産婦人科で研究をしたいと願っていました。しかし、治安の問題、子どもの就学や保育園、何より米国で生活するには欠かせない運転免許証を持っていないなどの問題で、大学研究室で勉強する前にたくさんのハードルがありました。
最初にアメリカの心の広さを感じた小さいエピソードがあります。米国到着2日目、9月から小学1年生となる長男のために1番近い公立小学校を訪ねた時、次男の保育園も探していることを告げると、敷地内の隣の建物にナーサリーがあることを教えてもらいました。2名の女性保育士さんに次男の入園が可能か尋ねたところ、明日からでもOKとのこと。子どもは英語が全く分からず、私は車での送迎ができないことを告げましたが、私と同じアパートから子どもを通園させている女性がいるので、一緒に車に乗せて連れてきてもらえば大丈夫、英語ができないのは全く問題ないと言うのです。日本なら見ず知らずの外国人にこのような提案はあり得ないと思ったものですが、ちょうどその時2歳の娘を迎えに来た白人女性を紹介され、翌週から次男はこのナーサリーに通園することになりました。余談ですが、この女性はまだ出産して3日目であり、後部座席には新生児がカーシートに寝ている状況でした。しかし「あなたが運転免許証をとったら交代(カープール)で子どもを送迎できるので助かる、実は今トルコ出身の産婦人科女性医師とすでに2人でカープールしているので、今後は3人でカープールできたらなお良いと思う。彼女にも了解を取ってほしい」と電話番号を知らされました。この女性は、米国到着後の初めてのアメリカでの友人となり、その後も子どもの誕生会に招待されるなど、いろいろなお付き合いが始まったのでした。また、その夜電話した産婦人科医は偶然にもジョンズホプキンスのオープンシステムで妊娠・出産を扱っており、私がホプキンスの研究室へ行くことになった後、臨床を見るきっかけを与えてくれて、しばしば彼女の腹腔鏡手術に一緒に入ったり、回診や男児の割礼などを見学したりしました。
ホプキンスの分娩の半分以上は、病院と契約を結んでいる開業医の個人患者で、米国と日本での妊娠・出産に関するシステムの違い(母子手帳なし、短い分娩入院日数、助産師不在、母親学級などの教育・保健指導なし、缶詰液体ミルク、避妊法として卵管結紮術の頻度がかなり高い)なども改めて認識しました。子どもがいることで留学生活にはかなりの足かせが生じると思っていた私にとって、まずは思いもかけない好スタートとなったのでした。
生活を楽しむ中で恵まれた出会い
米国ではちょっとしたパーティーが多く、ラボでも誕生会だ、送別会だ、独立記念日の前祝いだ、感謝祭だといっては昼食時に1品持ち寄りの立食パーティーが開かれました。アメリカに慣れるためにも、アメリカ生活をエンジョイするためにも、自分にはあまり関係のないようなパーティーやイベントでも、誘われれば必ず出席するという方針で行動しました。おかげで、アメリカ滞在中、我が家でのディナーパーティーは約70回、招待されたのが35回、一番多い時で、1週間に5日間、自宅でパーティーをしたこともあります。簡単な名もない料理と飲み物でまずは来訪者と会話して歓待し、その後複数の料理を出してディナーを楽しむというやり方も自然にできるようになりました。友人も増え、米国人の寛大さや考え方を学び、米国ならではの自家用車での旅行も、冬のフロリダ半島先端や夏のカナダのケベック州やプリンス・エドワード島への大旅行から1〜3泊の小旅行まで、たくさん経験しました。
ホプキンスの産婦人科のスタッフ(フェローや学生を指導する立場)に慶応大学出身の吉村泰典先生が勤務されていることを知り、渡米してちょうど3週間、車の路上試験に合格した日に自宅のディナーに招待しました。吉村先生は、のちに慶応大学産婦人科主任教授、日本産科婦人科学会理事長となられた方ですが、当時30代半ばで、彼から教室で行っているウサギの卵巣のパーフュージョン実験等の研究の話を聞きました。すぐにCVを作成して、早々、産婦人科主任教授のEdward E. Wallach先生に会いにいきました。Wallach教授は2年前、ペンシルバニア大学からホプキンスの主任教授になられた方で、ホプキンスへは、その時研究室で一緒に働いていた日本人の吉村先生と、京都大学より来られていた細井美彦先生(現、近畿大学学長)の2人を連れて移られたのでした。
Wallach教授のオフィスの壁には日本語で大きく「ワラック博士」と書かれたパネルが貼ってあり、先生ご自身が京都に半年間住んでいらしたことをお聞きしました。先生の下に集まる日本人の研究者は大変優秀で、私が研究室で働くことを歓迎すると言って下さいました。当時は、78年に英国で、83年に日本で体外受精が成功していましたが、ICSIとよばれる顕微授精のヒトでの成功は92年であり、排卵機構や卵の成熟機序などはまだまだ解明されていませんでした。
「生涯の宝」を得た留学の日々
ホプキンスで始まる実験は、朝9時過ぎにまずウサギを動物小屋に取りに行くところから始まり、卵巣動脈にカニュレーションして卵巣を摘出、これを保護液で還流するパーフュージョン系に組み入れます。このメディウムの中にhCGを注入すると見事に卵胞が発育してきて、また同時に卵が成熟しはじめ、ついにはin vitroで排卵が起こるのですが、この系に種々の薬物を加えて、卵胞破裂現象、卵巣のホルモン産生能、卵の成熟状態などを観察する実験を行っておりました。
私にとっての留学生活のハイライトは、カナダのトロントで開催された米国不妊学会(現・生殖医学会)での口演発表でした。これはWallach教授が学術集会長をされた特別な学会で、かつ吉村先生や細井先生はすでに日本に帰国された後の開催でした。この時、Wallach先生は私のためにラボのみんなを集めて、予演会を2回にわたって開いてくれました。その際、内容以外にも、発表するスライド9枚全てに対して「This slide shows……」とする私に、showsは1回だけの使用に留め、introduces、illustrates、indicates、summarizes、depictsなど各々のスライドに対して別の動詞を用いて発表するように指導を受けました。先生は英文科を卒業されており、発表の表現の仕方にとてもこだわりがありました。その後帰国してからも私は、国際学会ではこの教えを守って発表しています。
トロントでの私の発表に対しては、フロアからも座長からも質問が複数出ましたが、直後もその後もWallach先生は私がとてもすばらしい発表をしたことを誇りに思うと言って下さいました。先生とは、帰国10年を経てウィーンで開かれた世界体外受精学会で偶然お会いし、私が口演発表する会場に応援に来て下さり(この時の発表はinvited paperとなってこの学会誌に論文化されました)、研究についてアドバイスを下さったり、来日された際にお話ししたりと嬉しい関係を続けさせていただいています。留学の時期は他にもたくさんの気づきや生きていく中での哲学が私の中で育っていった時期で、この留学生活はどのようなことも前向きにとらえ、知的好奇心を高め、また、広い心で多くの人と関わることを教えてくれた、今でも私の中の宝物です。
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