一方でじわり増える「梅毒」
新型コロナウイルスが猛威を振るう中であまり注目を浴びる事は無かったが、厚生労働省は8月30日、日本が初めて結核の「低蔓延国」入りを達成したと発表した。 古くは「労咳」と呼ばれ、幕末の高杉晋作や沖田総司、明治期の樋口一葉や石川啄木ら多くの著名人の命を奪って来た 「国民病」。願わくはこのまま根絶へと向かいたいが、行く手にはいくつものハードルが横たわる。
「これはものすごい画期的な事件です。1951年に統計が開始されてから70年。先人達の努力がようやく実を結んだんですから」と喜ぶのは長年、結核対策に取り組んで来た関西地方の医師だ。
低蔓延国とは、読んで字の如く流行が低く抑えられているという意味。結核の流行状況の基準を示しているのは世界保健機関(WHO)で、人口10万人当たりの新規感染者数が10未満だと低蔓延国、100未満だと中蔓延国、100以上だと高蔓延国と定義される。日本は長年、中蔓延国の位置に居たが、2021年の統計で10万人当たりの新規感染者数が「9・2人」となり、初めて10人を切ったという訳だ。
古代エジプトのミイラからも罹患の痕が見られる程古くから人類と共に在った結核菌だが、日本で特に流行したのは明治期から戦後の混乱期に掛けてだ。産業革命に伴う人口集中や劣悪な公衆衛生が感染を拡大させ、「結核予防法」が施行された1951年には、人口10万人当たり698人もの新規患者が出ていた程だ。
一方、欧米では19世紀の産業革命を切っ掛けに工場労働者の間で広がりを見せたが 、労働環境の改善に伴って患者は減った。WHOによる世界各国の2020年の感染状況(推計値)を見てみると、米国2・4人、スウェーデン3・6人、オランダ4・1人、デンマーク4・9人、ドイツ5・5人と、欧米諸国は軒並み低蔓延国となっている。
一方、アジアでは多くの国で流行が収まっていない。フィリピンでは10万人当たりの新規患者が539人、ミャンマーでは308人、インドネシアでは301人と軒並み高蔓延国で、中国は59人、韓国は49人、シンガポールは46人といずれも中蔓延国だ。日本はアジアの中では抑え込みに成功している国と言える。
結核菌への感染によって引き起こされる結核は、咳や痰、発熱など風邪に似た初期症状が起きる。肺だけでなく、内臓や骨等に被害が出る場合も有る。感染経路は感染者の咳やくしゃみを吸い込む事による空気感染だが、多くの場合は菌が肺に到達する前に排出され、感染する事は無い。更に感染したとしても、直ぐに症状が現れる訳ではないのが難しいところだ。感染者の10〜15%は数カ月〜2年以内に発病するものの、残る人達は自身の免疫力で菌の増殖を防ぎ、体内で結核菌を「休眠状態」にするのだ。ところが高齢になって免疫力が落ちたり、免疫抑制を伴う治療をしたりする事で発病する人達が10〜15%居る。逆に言えば、感染しても大多数は発病しないまま、他者に感染させる事も無い。
なぜ日本の「低蔓延国」入りが遅れたのか
現代では治療法が確立されており、発症した場合は入院して複数の抗菌薬を服用する。又、予防として乳児へのBCGワクチン接種も行われている。ワクチンの予防効果は十数年で薄れてしまうが、免疫力が弱い乳児期に接種する事で一定の効果が有ると考えられている。
こうした〝対策〟がしっかりと行われながらも日本の低蔓延国達成が遅れた理由は、感染者の内訳を詳しく見て行く事で解明出来る。日本の新規患者の3分の2は70歳以上の高齢者だ。その多くは、今より結核が流行していた時に感染したものの発病しないまま高齢となり、持病の影響等で免疫が弱まった事で発病したと見られる。抵抗力が弱い高齢者の間で集団感染が起きないよう、若い世代に感染する事が無いよう、高齢者施設等の感染対策をしっかり取る必要が有る。
又、新規患者の1割は外国生まれというのも注目すべき点だ。前出の通り、日本と行き来が多いアジア各国には結核が蔓延している国も多い。日本に中長期で滞在する外国人には事前に検査をする等、健康状態を継続的にチェックする必要が有るだろう。
厚労省関係者は「低蔓延国入りは良かったが、安心して対策を緩めると、直ぐに又感染者が増えてしまう恐れが有る」と警戒する。事実、結核は「過去の病」だと人々の関心が薄れた事で、1997年には患者数が38年ぶりに増加に転じた事も有る。
更に、コロナ禍特有の事情を懸念する声も有る。専門家の中には、低蔓延国の基準を達成した理由に、新型コロナの影響を挙げる声も大きいのだ。新型コロナの流行で人との交流が減ったり、しっかりとした感染対策が取られたりした結果、結核に限らずインフルエンザ等の多くの感染症の患者が減った。一方で、感染性ではないがん等の新規患者数も減少しており、これは患者そのものが減ったのではなく、検査や通院が抑制された結果、病気の発見が遅れているのではないかと指摘されているのだ。
感染症に詳しい都内の医師は「結核の場合も、コロナ対策で感染そのものが減っている可能性は有るが、一方で患者の発見が遅れている恐れも有る」と語り、「来年以降も低蔓延国が続くかは分からない」と楽観的な見方を否定する。更に、「海外には、薬剤が効かない多剤耐性結核が増えている国も有る。結核は早期に発見し抗菌薬で治療すれば、周りに広げる事無く治る病気だが、今後は治り難くなる恐れも有る。耐性菌が増える前にしっかりと根絶に近付けておく必要が有る」と強調する。
早くも昨年超えの梅毒感染者数
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染症を巡っては、気になるニュースも有る。主に性行為で感染する梅毒が、コロナ禍にも増加を続けているのだ。
「国立感染症研究所によると、今年は9月上旬時点で、現行法に基づく調査で過去最多だった昨年1年間の患者数を上回る8000人超が確認された。 コロナ禍で他の感染症の流行は抑えられているのに、なぜ梅毒が増えているのか、SNS(交流サイト)を通じた性行為が原因だとする声も有るが、はっきりした理由は分かっていない」と医療担当の全国紙記者は解説する。
「梅毒トレポネーマ」という病原菌によって発症する梅毒は、性行為によって広がる性感染症で、感染しても症状が出ない事も多い。戦後は年間20万人を超える新規患者が居たとされるが、現行の調査が始まった99年以降は年500人程度で横這いを続けていた。ところが、2013年に年1000人を超えると、その後も増加を続け、昨年は7983人(暫定値)に迄急増。今年も9月上旬時点で、昨年1年間の患者数を上回る事が確実となったのだ。
「治療をしなくても症状が消える事も多いが、病原菌そのものが体内から消えたのではない。結核と同じように、感染から数年経って臓器等に影響が出る事も有る。早期に抗菌薬で治療する事が大事だ」と都内のクリニック医師。新型ウイルスのパンデミックは、世界の感染症の地図を塗り替えたと言われる。一方で、昔から存在する感染症は決して消えた訳ではない。少しでも気になる症状が有れば、早期の受診をお勧めしたい。
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