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未来の会

私の海外留学見聞録⑩ 〜米国デンバー留学の思いだと成果〜

私の海外留学見聞録⑩ 〜米国デンバー留学の思いだと成果〜

大田 健(おおた•けん
公益財団法人結核予防会
JATA複十字病院 病院長

デンバーへの留学決定と留学直後

私は、2年間の東大病院での研修を終えた1977年に当時物療内科講師の宮本昭正先生(現在東京大学名誉教授)のグループに入局した。入局の決め手の1つは、留学に早く行ける事であり、心の中は1日でも早く留学したいという意欲に満たされていた。研究室の集会で宮本先生がIgE産生の調節機構の研究を誰かやらないかと言われた時に、私は手を挙げて志願した。とても時間のかかる実験を要するテーマであったが、デンバーへの留学を後押しする事にもなった。留学先の候補として、アレルギー・免疫・呼吸器の分野で評価の高いデンバーのNational Jewish Hospital(NJH:当時の名称)を考え、applicationを送付したが、何の返事も無いまま1年が経過し諦めかけていたところ、ChairmanのDr. Cherniackから採用を示唆する手紙が来た。新しく内科のアレルギー部門の主任になるDr. Kirkpatrickが、私のIgEの研究に興味を持ち採用するとの事であった。ついに入局以来の念願が叶って、留学が実現したのである。早速宮本先生に報告すると、NJHは宮本先生が20年前に留学された所である事が明らかになった。中ボスのDr. Harbeckから、住まいが決まるまで自分の家に滞在するよう勧められ、お願いする事にした。

日本を出発したのは、80年4月4日である。偶然だが、4月4日は父方の祖父の命日で、私が大学に入学して、広島から東京に出発したのも68年の同じ日であった。2歳になる直前の長男も連れて、最初から家族3人で渡米した。時差調整を兼ねて従兄のいるホノルルに3泊し、4月7日の夜、無事デンバーに到着した。空港にはDr. Harbeck(Ron)と長女のLisaが来てくれており、家まで案内してもらった。Ronの家では地下にある部屋を使う事になった。日本と異なり空気が乾燥しているので、地下はとても快適な空間である。翌日には早速RonとNJHに出勤した。途中の車の中で、“I came here not to be a technician.”と言ったところ、“You mean you would like to be a researcher.”とRonから返答があり、私の真意を伝える事が出来た。着くと直ぐにDr. Kirkpatrick(Chuck)とDr. Cherniack(Reuben)に挨拶に行った。Chuckには、PBLを用いた実験には限界があるので扁桃の細胞を使って研究したいと伝えた。Reubenからは、私がECFMGにパスしている事が分かったので、アメリカ人のレジデントと同等の身分で雇う旨の話があった。ECFMGのお陰で、健康保険を自分の給与から出す必要が無くなり、経済的に随分救われた。挨拶を終えた後の時間を図書館で過ごしていたところ、脳貧血状態になり床に横たわって何とか持ち直した。床に寝る事になったのは、この時と後述の実験で夜中に顕微鏡下で細胞数をカウントしていた時の2回であった。デンバーの愛称“Mile High City”の由来である標高1600m(1mile)を実感した。

研究のエピソード

扁桃を用いた実験を許可されたので、供給を受ける為にDenver Children’s Hospitalにお願いする事になった。思ったよりも交渉はスムーズで、手続きも簡単であった。ほぼ毎週、3〜4例は確保出来ていた。ところが、ここで大きな壁が行く手に立ちはだかった。肝心のIgEの測定系が確立されていなかったのである。それを担当していたのが雲をつく様な大男のScottという実験助手であった。彼は、2重抗体法(double antibody assay)に用いる第2抗体としてヤギを免疫して抗ウサギIgG抗体を作っていた。最後の注射も計画通り終了し全血採血の日に、私はScottから耳を疑う言葉を聞いた。“I would like to take the goat home.”と彼は動物担当の技師に言ったのである。そして許可が得られると、ヤギを大きなビニール袋に入れ持ち帰ったのである。私が直ぐに“For what would like to use the goat?”と尋ねたところ、彼は“I will have a barbecue party with the goat this weekend.”と当然という顔で答え、驚く私に更に追い打ちをかける様に“You Japanese eat tuna fish from the head to the tail.”と宣うた。肉食文化を実感した瞬間であった。彼が測定系を担当する限り明日は無いという悶々とした日々に朗報が舞い込んだ。Scottがdental schoolに合格し、辞める事になったのである。新しく採用された実験助手は、ギリシャ系の若い女性でThiandaと言い、とても柔軟で優秀な頭脳の持ち主であった。そしてついに我々は至適条件に到達し、微量IgEの測定が可能になった。得られた結果は、扁桃細胞の培養系を用いてヒトのIgE産生を研究した世界で最初の論文となった。最初の論文が出てからは、すっかり仕事に弾みが着いた。T細胞のサブセットを分離する手法と100倍高感度の測定系を確立して成果を上げた。一連の結果は、米国アレルギー喘息・免疫学会と (AAAAI)と米国免疫学会議(AAI)で発表した。2度目の脳貧血状態を経験したのはこのサブセットの実験の時であった。ある日分離した細胞の純度を検討する為に深夜まで1人顕微鏡で細胞を観察していたところ、目眩がして床に横たわる羽目になった。ところが、そこから予想外の展開となった。研究室は夜掃除するのだが、毎夜お馴染みになった掃除のおじさんが私を見つけて、慌てて当直医を呼んでしまったのだ。Dr. Vinsonという50代のベテラン医師が早速息を切らせて駆けつけた。これが縁で彼とは自宅に招き招かれる付き合いをする様になり、米国の平均的と思われる勤務医の生活に触れる事が出来たのは幸運であった。研究に関しては、当時から研究はユニークで創造的にといつも考えていたが、具体的に内容を考え組み立てて結果を出し、考察して論文にするという一連の流れを学ぶ事が出来た。5年後、特発性肺線維症(IPF)の研究の為に再度留学する事になったが、その時もDr. King(Talmadge)という素晴らしいボスに恵まれた。本稿では、紙面の都合で最初の留学についてのみ記述している。

留学の日常生活

私が80年4月に渡米する時は2歳になる直前の長男を含めた3人であったが、留学中に子宝に恵まれ、1年目の1月に次男が、そして3年目の1月には長女が誕生した。いずれの時も義母が来て助けてくれたので、仕事に支障を来す事は無かった。出産の費用は、レジデントの健康保険がカバーしたので日本よりも負担の少ない出産であった。入院は噂通り3日間のみであったが、出産当日は私も立ち会い、夫婦で祝う内容のメニューが用意され、部屋も含めてとても居心地の良い環境が提供された。今から40年余り前であった事を考えると、日本との医療環境の較差は想像以上であった。長男は、3歳になると地元の教会に付属するkinder gardenに通う様になった。そこでAdamという友人を得て、親も含めて家族での付き合いが始まった。Halloween、Christmas、Valentine’s dayなど家族で楽しむ行事の意義や慣習を教わった。また家族でfamily partyを開き、文化的交流を持つ事が出来た。余談であるが、Adamのお父さんのidentical twinのお兄さんは極東総司令官で横須賀の基地におられ、帰国後、基地内に招待されるという貴重な体験もさせてもらった。研究室のメンバーや現地の新たな友人とも主にhome partyを通じて親睦を図った。とにかく自然が素晴らしく、Aspenでの毎夏のconferenceには帰国後も参加していた。Colorado Springs、Santa Feと世界遺産のPueblo de Taos、国立公園のMesa Verde、Grand Teton、Yellowstoneなどまた訪問したい場所である。スキーは初心者でも楽しめるKeystoneやVailといった素晴らしいスキー場が郊外にあり、最初の留学では自重したが、2度目の留学時にしっかり楽しんだ。夏には私の両親が来訪し、1年目はDenver近郊、2年目はDisneylandとSan Francisco、3年目はSeattle、Canadian Rocky、Vancouverを旅行し良い思い出が出来た。学会ではMontrealに行き、Williamsburgに1泊し、NIHに留学中の東大で同僚の所を訪問した。

Washington, D.C.の首都としての大きなスケールとWilliamsburgの歴史的雰囲気に圧倒され、米国の底力を実感した。同時に日本の長い歴史と素晴らしい独自の文化を再認識した。本稿の執筆で、希望に燃えていた留学当時を振り返る事が出来た事を感謝したい。

▲ Aspen近郊の美観で有名なMaroon Bellsにて家族と。

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