精神医療の分野での最近のトレンドのひとつが、「ハームリダクション」だ。あえて日本語に訳すと「二次的被害の低減」となるだろうか。
これは主に薬物依存症の対策や政策、ケアや治療の柱になる理念だ。より具体的に言えば、「ダメ。ゼッタイ。」が基本だった従来の厳罰主義、絶対禁止主義から依存の背景にある「生きにくさ」に目を向け、「薬をやめること(だけ)を目標としない」という方針で当事者と向き合う姿勢や考え方を指す。そこから生まれるものは、当事者への「住居や仕事の提供」であったり「良い・悪いで評価せずに薬物のデメリット、そしてメリットを自分なりに見直すプログラム」であったりといろいろだ。
スティグマ化に加担しない為に
実際にこの理念で、薬物は続けながらも生活を少しずつ立て直していったり、自分なりにどういうことがトリガーになって薬物に対するセルフコントロールを失うのかを冷静に把握できたりするようになることで、結果的には薬物の使用頻度が減ったり断薬につながったりするというエビデンスも多く出ている。「ダメ。ゼッタイ。」だけでは福祉や医療の場にさえも居場所がなくなり、自分で自分を「ダメ人間」と責めるようになり、さらにそのつらさから逃げるために薬物に耽溺する、という悪循環ができあがるのだ。
このハームリダクションで大切なのは、「薬物依存に陥るのは意思の弱い人間」とか「違法薬物を使用する人は犯罪者、人間失格」といった負の烙印を押されないようにする、つまり社会学で言うところのスティグマ化をさせないようにするということだ。
さて、ここからが今日の本題である。
「依存症者が“廃人”などの烙印を押されたら自暴自棄になり、余計に薬から手を切れなくなる」という理屈には、多くが納得するだろう。ただ、ここで気をつけてほしいのは、私たち医療従事者もこのスティグマ化に加担している場合があるということ、さらにこの医師によるスティグマ化は依存症のみで起きるわけではないということだ。
いまこのスティグマという概念とその有害性が注目されているのは、糖尿病治療の分野である。糖尿病はとかく「食べるのを自制できない人」「生活習慣がだらしない人」という目で世間から見られがちである。そしてさらに診察室でも、心ない言葉が投げかけられることがある。
「あーあ、また数値が上がってますね。甘いものはやめましょうって約束しましたよね?」「あなたのお父さんの代から見てるけど、お父さんもやせられなくてね。自分に甘いのは遺伝かな」「これじゃ合併症起きて子どもたちにも見捨てられるかもね」
ここまでひどい言い方はしなくても、ついこれに近い言葉をつぶやいてはいないだろうか。なんとか治してあげたい、がんばってほしい、という思いや期待が裏切られた無念さから出る言葉なのかもしれないが、糖尿病のコントール不良の人は「約束が守れない」「自分に甘い」「家族に見捨てられる」という負の烙印、つまりスティグマの形成が行われている。
そうなると患者さんはどう思うだろう。一部の人は「そのイメージを払拭して先生に見直されたい」とファイトが湧いて、食事にいっそう気をつけるかもしれない。しかし、多くの人は「先生にそういう目で見られてるんだ」とショックを受け、ある人は「もう正直に話すをやめよう」、もしくは「通院をやめよう」と思ったり、ストレートに「ひどいことを言われた」と怒りを感じたりするはずだ。さらに別の人たちは、「先生がそう言うから、本当に私は自分に甘くそのうち家族にも嫌われるのだろう」と自分をスティグマ化する、セルフ・スティグマに向かうことがある。すると、糖尿病そのものの悪化だけではなく、抑うつなどのメンタル不全、ほかの身体疾患の誘発などすべてが悪い方に転がり出してしまうことになる。
なにも「患者を甘やかせ」と言ってるわけではない。薬物依存症者に「もっと薬をやっていいですよ」と、コントロール不良の糖尿病患者に「好きなだけ食べましょう」と言うのは、医師としては誤った態度だ。ただ、うまくいかない患者を診たとき、その原因を本人の性格や意思に求める前に「ほかに何かあるのでは」と一瞬だけでも考えてみる習慣を身につけてほしいと思う。
マイクロアグレッションにも注意する
詳細は省くが、糖尿病の高齢女性の検査データが悪化したことがあった。体重も増えている。その人は最近、夫を亡くしたばかりで、表面的に考えれば「まだまだ悲しい時期なのに食べすぎるとは」ということになりそうなケースだ。ところが、よくよく話を聴くと、原因はどうもほかのところにあった。夫が亡くなってから、仏壇に必ずお菓子やくだものなどのお供えをしてきた。しかも、夫のために毎日、新しいものを供える。そのときに前日のものを下げるのだが、仏壇の前に座って「このカステラ、あなたとても好きでしたよね」などと夫の遺影と対話しながらそれを食べる時間だけが唯一さびしさを感じずにすむ、と言うのだ。「ご主人が亡くなったばかりなのによく食べられるものですね。検査、すごく悪くなってますよ」などと言うのは、その人を二重、三重に傷つけることになるだろう。「あれ? おかしいな」と感じるその背後には、必ず“なにか”があるのだ。
言うまでもないが、これは糖尿病に限ったことではないし、他の分野ではさらに「そんなことを言う医者がいるなんて」と驚くような言葉を投げかける医者もいるようだ。先日、SNSを見ていたら、こんな投稿があった。母親とともに検査結果の説明を聞きに行った30代の女性が「乳がん」と告げられて泣いてしまったら、医者は母親に向かって「娘さん、メンタルが弱いんですね」と言ったというのだ。これなどスティグマ化とすらいえない単なる失礼な発言だが、その女性は「なぜ自分ではなくて母親に話しかけて同意を求めるのか」「がんと告知されたら誰でもショックを受けるのではないか」とある意味、がんになった事実以上に悲しんでいるようだった。
こういった失敗を少しでも防ぐには、古典的だが「自分の家族だったら」と想像してみる方法も有効だ。自分の娘が乳がんになり、告知に際して泣いたら主治医に「メンタルが弱い」と言われた。あるいは、高血圧がなかなか改善しない母親が、受診のときに「しょっぱいものばっかり食べてるんじゃないの? そのだらしない性格から治さなきゃね」と言われた。そういう情景を想像してみると、とても「先生の言う通りだ。家族が悪い」とは思えないはずだ。
臨床の場面で避けるべきことは、このスティグマ化だけではない。最近は、「悪意なき差別や偏見」と呼ばれるマイクロアグレッションと呼ばれる対話のパターンも問題視されている。それについては次回述べたいが、予告編として例だけあげておこう。血糖値が上がった人に「どんなにおいしいもの食べたんですか?」と声をかける。これは是か非か。考えてみてほしい。
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