第⑧回 男性片稼ぎモデルの問題と稼ぎ手としての女性
資本主義の形成に伴い、労働が主としてモノの生産に関わるものと見做されるようになった。その過程で、女性はモノの生産領域からは排除され、家庭という「私的領域」でその労働力を生産(出産)し、再生産する(養育し世話をする)役割へと押し込められる事となる。というのも、労働者階級の男性達が
フルタイムで働く為に、女性に家の事をやってもらう必要が生じたのである。
男性片稼ぎモデルの崩壊
19世紀の経済学者は、育児や家事といった家族の為の仕事は、目に見える財を生まず、売買も出来ないので経済に寄与しないと考えていた。農業等に従事していた時代には広範囲に亘っていた女性の活動範囲が家庭に閉じ込められ、無償化又は価値が引き下げられてしまった。この収入を伴わない家事や育児、介護等をアンペイド・ワークと呼ぶ。
家庭内労働が経済的に価値の無いものと見做された事から、伝統的に女性が担ってきたケア労働は、例えば、保育士や介護士、看護師等、今でも賃金の低い不安定な仕事になってしまっている。
日本では夫婦が共に就業している状態を「共働き」と言う。しかし、「共働き」という表現は、家庭の外で収入を得る仕事を「労働」と捉える一方で、アンペイド・ワークを「労働」としてカウントしていない事の表れである。恐ろしい事に、我々は無意識の内に、家庭内労働を「労働」と見做して来なかったのだ。従って本稿では、アンペイド・ワークも労働と見做す為に、意識して「共稼ぎ」「片稼ぎ」という表現を用いる。
従来、世帯レベルの「仕事と生活の両立」即ちワーク・ライフ・バランスは、世帯内分業によって実現されてきた。夫が家計責任を負い、妻が家事・育児責任を負うという「片稼ぎモデル」、あるいは育児が一段落した時に妻がパート等で働き家計の補助をする「1.2モデル」である。1.2モデルとは、夫の収入を1とすると、妻の収入が0.2程度の収入、という事だ。しかし、片稼ぎが可能なのは稼ぎ手に安定した高収入がある場合に限られる。実際、日本の平均年収が減少するにつれて、「片稼ぎモデル」は崩壊した。1980年以降、共稼ぎ世帯は年々増加し、97年以降は男性雇用者と無業の妻から成る「男性片稼ぎ」の世帯数を上回り、2012年頃からその差は急速に拡大している。しかし、家庭内労働の性別分業が変わる事無く「共稼ぎモデル」に移行しても、女性は無償労働時間が長い為に、有償労働時間を十分に確保する事が出来ない。OECD諸国と比較すると、日本は男性も女性も有償労働時間が長いが、特に男性の有償労働時間は極端に長く、無償労働が女性に偏るという傾向が極端に強い。
ところで、「ワーク・ライフ・バランス」という言葉だが、前述した通り「仕事と生活の両立」と訳される事が多い。特に女性の場合、家の外で金銭を稼ぐ仕事と家庭内労働(家事・育児)とのバランスに関する文脈で使用される事が多い。結局、家の外で稼ぐワークと家庭内ワークのバランス、という事になり、実はワーク・ワーク・バランスに過ぎないという点に注意すべきである。ここでも家庭内労働の軽視、透明化が垣間見える。
配慮という名の差別とマミートラック
「片稼ぎモデル」崩壊と共に、近年、妊娠・出産を経た女性も就業を継続する機会が増え、職場で活躍する事が求められる様になってきている。しかし、就業を継続出来たとしても、出産や育児を機にキャリアが停滞し、思う様に活躍出来ない、所謂マミートラックが問題化して来た。マミートラックとは、育児と仕事の両立を目指す女性が、産休・育休等の制度を利用した後、責任ある仕事を任されず、昇進確率の低い部署へ配属されたりする事で、ファストトラック(出世コース)の対義語として使われる。本連載第5回の「資生堂ショック」でも紹介した。
女性外科医の手術執刀の機会
最近、JAMASurgery誌に日本の消化器外科医に関する論文が掲載された。日本では、外科系診療科医師の手術執刀の分担をその診療科の責任者が決めている事が多い。日本の外科手術の95%以上が登録されているNational Clinical Databaseのデータを用いて、6術式(胆嚢摘出術・虫垂切除術・幽門側胃切除術・結腸右半切除術・低位前方切除術・膵頭十二指腸切除術)での外科医1人当たりの執刀数を男女で比較したところ、全ての術式で女性外科医は男性外科医より執刀数が少なかったという。この差は手術難易度が高い程顕著であり、経験年数と共に拡大する傾向にあった。消化器外科に指導的立場の女性が極端に少ないのは、外科手術のトレーニングの機会が均等に与えられていない事が主たる原因ではないかと考察されている。
勿論、女性の妊娠・出産・育児等の過程で仕事をセーブしなければならない期間はある。しかし、男性外科医は家庭内労働を配偶者に任せ、女性外科医は家庭内労働の主たる担い手である事が多いという性別分業やジェンダーステレオタイプによる過度の配慮によって、女性外科医の執刀の機会が減らされている可能性がある。又、「女性医師支援」として当直免除や時短勤務、育児支援等が謳われた時期もあった(今でもそうかも知れない)。ただ、それらの支援策は男女の労働時間の格差の拡大と固定化、性別分業固定化に繋がり兼ねない諸刃の剣である。実際、07年から09年にかけて、文部科学省からの助成金によっていくつかの大学病院や医学部で女性医師支援の取り組みが行われた。この時に各大学は「女性医師支援として」保育所の整備や時短勤務、当直免除等に取り組んだ。しかし、対象となった大学病院の女性医師の割合は対象外の大学病院と比較して、有意な程増加していなかった。特に、大学教官に関しては、取り組み対象の大学は元々他大学よりも少なく、期間中は若干その差は縮小する傾向にあったものの、取り組み期間の終了後は他大学との差が再拡大した。結局、大学病院の教官という指導的立場の女性医師を増やす事は出来なかった。これらの取り組みは、育児中の女性医師が育児と仕事を両立し易い環境を提供したかも知れないが、同時に、男女の労働時間の差の拡大や性別分業固定化にも繋がり、結果として女性医師をマミートラックに追いやった可能性すら在る。穿った見方をすれば、「育児は女性が担うものである」という誤ったメッセージを与えてしまったかも知れない。
結局、男女共に医師としての仕事と家庭内労働の両方に参画する事を目指すべきであり、女性医師だけの時短勤務や当直免除等の労働時間短縮はあくまで過渡期の対策に過ぎない。男女を問わず、養育中の医師が勤務不可能な環境には大いに問題がある。実は「女性医師支援」ではなく、男性医師が家庭に参画する事を支援する「男性医師支援」こそ必要なのではないか。
執刀したい外科医は男女関係無くバリバリ手術をし、ゆとりある勤務をしたい人は男女関係無くゆるゆると働ける社会が望ましい。
少子高齢社会を支える為には男性片稼ぎモデルでは不安定であり、共稼ぎモデルの方がリスク分散と男女共同参画の意味で望ましい。その為には、女性だけが家庭でアンペイド・ワークに縛られないよう、社会全体が性別分業のしがらみから脱却するべきである。
参考文献
酒井 隆史『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』講談社現代新書(2021)
カトリーン・マルサル(高橋 璃子・訳)『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』河出書房新社(2021)
久本 憲夫『日本の社会政策』ナカニシヤ出版(2010)
Kono E, Isozumi U, Nomura S., et al.『Surgical Experience Disparity Between Male and Female Surgeons in Japan』 JAMA Surgery(2022)
Okoshi K, Fukami K, Tomizawa Y., 『Analysis of Social Policy and the Effect of Career Advancement Support Programs for Female Doctors』 Womens Health Reports(2021)
内閣府男女共同参画局『共同参画』2020年9月号
https://www.gender.go.jp/public/kyodosankaku/2020/202009/202009_02.html
内閣府男女共同参画局『男女共同参画白書 令和2年版』
https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r02/zentai/html/column/clm_01.html
21世紀職業財団『子どものいるミレニアル世代夫婦のキャリア意識に関する調査研究』(2022)
https://www.jiwe.or.jp/research-report/2022
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