各国の学術賞を受賞した基礎技術に注目が集まる
コロナ禍3年目も後半に入った。オミクロン株が世界的に猛威を振るい、日本では第7波の大波で、又も医療危機に直面した。変異を続けるウイルス・SARS-CoV-2が、どの程度まで弱毒化するかは予断を許さない為、警戒し続けなくてはならない。加えて人類は、この先も未知のウイルスと遭遇するリスクを思い知る事になった。
そうこうする内、2022年もノーベル賞の発表時期が迫っている。コロナ禍が収束に向かう確実な決め手になったと迄は言い切れないが、昨年来、生理学・医学賞、もしくは化学賞の有力候補として名前が挙がるのが、メッセンジャーRNA(mRNA)ワクチンの基礎技術を確立した研究者達だ。
受賞が続くワクチン実用化の立役者達
ドイツ・ビオンテック社上級副社長で生化学者のカタリン・カリコ氏、そして、かつての彼女の同僚で共同研究者でもある米ペンシルベニア大学教授で免疫学者のドリュー・ワイスマン氏は、22年4月、カナダ・ガードナー賞の受賞者に選出された。医学分野において重要な発見をした科学者に贈られる同賞は、ノーベル賞の前哨戦とも目される賞である。日本人ではiPS細胞の発見者でもある山中伸弥氏も受賞しており、受賞者の4人に1人がノーベル賞を受賞している。22年のガードナー賞は、カリコ、ワイスマンの両氏及びカナダのブリティッシュ・コロンビア大学教授で、アイネックス創業者のピーター・カリス氏も名を連ねた。カリス氏は、バイオテクノロジーの企業をいくつも立ち上げた人物でもある。
カリコ、ワイスマン両氏は、四半世紀に亘る共同研究の成果として、遺伝物質であるmRNAを医薬品として用いる技術の基礎を築いた。05年にRNAの一部に改変を施して過剰な炎症反応を抑制する投与方法を発見した事が、ブレイクスルーとなった。全世界で多用された米ファイザーとビオンテック、米モデルナという双方のmRNAワクチンに繋がる発見である。mRNAは脂質ナノ粒子(LNP)の膜に包含して投与する方法により製剤化されたが、カリス氏はRNA送達技術研究のパイオニアである。3者の連係プレーにより、SARS-CoV-2のワクチンは、人類史上有り得ないほどの驚異的なスピードで実用化され、実際に高い効果を示した事が評価された。
なお、3者は6月に、“東洋のノーベル賞”を目指して始まった台湾の学術賞「唐奨」で、22年のバイオ医薬賞も受賞した。2年に1度受賞が決まる同賞は今年が5回目となり、最初の14年には、免疫チェックポイント阻害薬(オプジーボなど)の開発者である本庶佑氏等も受賞者に名を連ねている。16年には、フランスのエマニュエル・シャルパンティエ氏と米国のジェニファー・ダウドナ氏等が受賞した。この2人は、ゲノム編集技術「CRISPR-cas9」の開発者で、20年にノーベル化学賞を受賞した事は記憶に新しい。
逆境を乗り越えて研究に至る
カリコ、ワイスマン両氏は、21年には医学研究を対象とした米国ラスカー賞の1つ、ラスカー・ドゥベーキー臨床医学研究賞にも輝いている。又、22年1月に、日本発の「日本国際賞(Japan Prize)」も受賞した。この賞は、「世界の科学技術の発展に資する為、国際的に権威のある賞を設けたい」との政府の構想に基づいて、民間からの寄付を基に設立され、1985年からスタートしている。両氏は、日本国際賞の授賞式の為に4月に来日を果たし、記念講演と記者会見に応じている。サクセスストーリーを改めて振り返ってみよう。
カリコ氏の人生は、ドラマチックだ。55年、東西冷戦の最中に、ハンガリー東部の地方都市に生まれ、父親は精肉店を営んでいた。科学に秀で、名門のセゲド大学で生化学を学んだ。同大は長い伝統を持ち、ビタミンCの発見等により37年にノーベル生理学・医学賞を受賞したアルベルト・セント=ジェルジ氏が学長を務めていた名門校だ。カリコ氏は魚の脂肪を研究する中で、80年代初頭、後のmRNAワクチンに繋がるアイデアに遭遇する。それは、DNAを脂質の膜に包み動物の細胞に送るという実験だった。
その後、旧ソ連の政治改革であるペレストロイカの波に翻弄される。研究資金が打ち切りになった事を機に、家族で米国への移住を決行。外貨の持ち出しに制限があった為、闇市場で車を売って得た900ポンドを、2歳だった娘のぬいぐるみに忍ばせて出国した。89年にペンシルベニア大学に職を得ると、数年後にワイスマン氏と出会って意気投合する。
共同作業で確立した基礎技術が奏功
遺伝物質であるDNAやmRNAをヒトに投与すれば、その配列を鋳型として体内でタンパク質が合成される。それが医薬品やワクチンとして活用出来るのではないかというアイデアは、実は前世紀から在った。90年代初頭には合成したmRNAを動物に投与する実験が試みられていたが、実用化への障壁は高かった。mRNAは不安定な物質である事に加え、投与すると免疫反応で強い炎症が惹起されるのだ。しかし、外部からmRNAを投与すると炎症が生じるのに対して、元から体内にあるmRNAで炎症が起こる事は無い。そこに着目した2人は、RNAを構成する核酸の1つであるウリジンを、異性体のシュードウリジンに置き換え、炎症が抑制される事を突き止めた。更にこの置換により、体内で合成されるタンパク質量が増加する事も確認した。
この基礎技術の確立が、コロナ禍で大きな脚光を浴びる事となった。mRNAを利用した治療は、迅速性、経済性、更に応用範囲の広さが強力な利点となる。ビオンテックとモデルナがCOVID-19のワクチンを開発する迄の期間は6週間、その10カ月後には米国で緊急承認された。
応用性も魅力で、異なる病原体を対象にしてワクチンを作るのであれば、必要とされるDNAが変わる為、それに合ったmRNAを生成する事で、技術を迅速に展開する事が出来る。
感染症では、今後、COVID-19に加えて、重症急性呼吸器症候群(SARS)、中東呼吸器症候群(MERS)と、広くコロナウイルス感染症に有効なワクチンを開発しており、数年後の実用化を目指しているという。又、インフルエンザについては、現在の様に毎年接種するのではなく、10年に1度の接種で有効性が持続するワクチンを視野に入れた研究が進められている。
mRNAの用途は、他の疾患領域にも広がる。先ず循環器領域では、心不全で心臓バイパス手術を受けた患者の心筋にmRNAを投与し、血管の新生を促すタンパク質を合成させる。この治療法は、英国アストラゼネカ社とモデルナが臨床試験を実施して有効性が報告されており、実用化に大きく近づいている。
又、がん治療では、免疫療法の1つであるCAR-T細胞療法への応用も期待されている。CAR-T細胞療法は、患者から採取した免疫細胞に遺伝子を導入し、がんへの攻撃力を高めて体内に戻す治療法である。体外での操作に替えて、mRNAの投与により、体内の免疫細胞の遺伝子を改変する様な治療が開発されている。
遺伝性以外の疾患であれば、薬として必要なタンパク質を一時的に補う事が治療となる。mRNAにより、細胞は一定期間、目指すタンパク質を作り続けるので、タンパク質自体を投与するよりも有用であるとされる。その他に疾患では、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)、更に肝臓病の治療法開発も始まっている。
一方、遺伝性疾患に対しては、体外に細胞を採り出して行う遺伝子治療がある。こうした治療は複雑で高価だが、これに替えて、mRNAを投与するだけで、より簡易かつ安価な治療が実現する可能性が高い。
2022年のノーベル賞選考において、こうした功績が認められるかどうかは分からない。しかし、ノーベル賞の理念でもある「人類の為の最大たる貢献」に沿った科学技術を我々が手に出来るのは、とても喜ばしい事である。
LEAVE A REPLY