長野県厚生農業協同組合連合会
佐久総合病院(長野県佐久市)副院長
佐久医療センター腫瘍内科医長・がん診療センター長
宮田 佳典/㊦
がん治療認定医である宮田は、2度にわたるがんへの罹患で、がん告知、外科手術、放射線、化学療法を体験し、誰よりも深く患者の思いに寄り添えるようになった。再び襲われたがんに落胆するも、「日本人の2人に1人ががんになる。僕が2回なったから、ならない人がまた1人増えた」とプラスに捉えている。
難治なNK/T細胞リンパ腫が発覚
2006年初秋から、発熱や頭痛を伴う鼻づまり症状が2カ月近く続いた。出血や痛みもあり、宮田はリンパ腫を疑った。受診していた自院の耳鼻咽喉科で、組織を採取して病理検査で調べてもらうことにした。検査から1週間後、宮田の診察室に、当時の診療部長が突然やってきた。病理検査の報告書を携え、「こんな結果が出てるぞ」とバラッと突き出した。宮田はそのやり方に憤慨したが、すぐ報告書に釘付けになった。4年前の腎臓がんに続き、45歳にして2度目のがん告知は、伝えられ方だけでなく、内容も最悪だった。そこには、「NK/T細胞リンパ腫」と記されていた。
悪性腫瘍であることは予想通りだった。ただし、なじみのない病名で、「稀少がんで、治療法が確立していないかもしれない。まずいな」と動揺した。調べてみると、日本人での発症は年間数百人という。悪性リンパ腫でも、ホジキンリンパ腫のようなB型は比較的予後が良いが、T型は難治性のようだ。今回も頼るべきは、1993年に研修を受けた国立がんセンター(当時)だ。指導を受けた大津敦に連絡すると、最短で中央病院(東京都中央区)の血液内科を受診できる手はずが整った。
その当時、NK/T細胞リンパ腫には、診療ガイドラインどころか、標準治療もなかった。「このまま自然に任せて死を迎えるのもありだろうか」。少し弱気になり、悶々と2晩を過ごした。妻や反抗期だった3人の子どもたちにも、再度のがんを伝えた。家族は、宮田以上にショックを受けたはずだが、それを慮る余裕もなかった。
そして3日目、国立がんセンターを受診した。同センターが主宰するJCOG(日本臨床腫瘍研究グループ)という共同研究の枠組みがあり、標準治療の確立に向けて、共同で多施設の臨床試験を実施している。その中にNK/T細胞リンパ腫の試験もあった。放射線療法に化学療法を併用するものだ。その治療に賭けてみようと、前向きな気持ちが湧いてきた。
抗がん剤の厳しい副作用は、腫瘍内科医にはおなじみだ。どうせ毛髪は抜けるからと、早々に髪を刈り込んだ。職場に休暇を願い入れ、11月に入院した。翌日から、カルボプラチン、エトポシド、イホスファミド、デキサメタゾンの4剤を併用する治療が始まった。投与開始から3日後、これまで経験のない猛烈な嘔気に見舞われた。有効な制吐剤はまだなかった。好中球も一気に減少した。そこに、放射線の副作用が追い打ちをかけた。患部に集中的に照射しても、他の組織にも当たるため、激しい口内炎を生じた。痛みに加え味覚も変化し、嘔気が治まっても、食事が取れなかった。やがて体重は入院前から10kgも落ち、高カロリー輸液が命綱となった。鏡を覗いた宮田は、痩せ衰えた自分の姿に衝撃を受けた。
それは家族も同じだった。毎週見舞ってくれる妻は、自宅で焼いたパンを持参してくれた。クロワッサンは食感が良く、刺激も少なかった。妻は毎週、クロワッサンを持ってきてくれた。
副作用には、しゃっくりもあった。夜中に目覚めると、何とか薬で治めてもらった。「こんなにつらい治療に耐えているのだから、効かないはずがない」。復活を期して耐え、10週間に及ぶ厳しい治療を終え、退院の日を迎えた。
宮崎にいる高齢の両親には心配をかけまいと、退院してから初めて闘病を伝えた。息子の大事を知らなかった両親に大いに叱られ、親心が身にしみた。幸い、1カ月後に受けたMRIや内視鏡の検査で、腫瘍が消失していると分かった。そこから、当初は3カ月に1回、半年に1回と、定期検査の間隔が延びていった。
職場に復帰したのは、退院から約1カ月の自宅療養を経た07年3月だった。まずは、慣らし運転で半日勤務を3カ月ほど続けた後、フルタイムの勤務に戻った。当直は免除してもらった。スタッフも育っており、06年春に立ち上げた化学療法センターの運営も順調だった。
実は、JCOGのいくつかの臨床試験には、宮田も分担研究者として参加していた。被験者の側で協力できたことは、望外の喜びだった。宮田が受けた治療は、後に標準治療として確立した。
自分のがん体験が誰かの役に立つならば
その後は大病することもなく、患者となった経験を大いに生かしつつ、再び忙しい日々を過ごしている。患者の訴えには、以前よりはるかに真摯に耳を傾けている。教科書で見知ったことと現実の間は大きな落差もあった。医師は大勢の患者を相手にしているが、患者になると、目の前の医師の存在は大きかった。「患者の理解度や関心を確認しつつ、傷つけないように工夫しながら有益な話をしよう」。常に意識するようなった。
治療中、60kgまで落ち込んだ体重は、体力を回復しようと食べ過ぎたせいか、一時75kg近くになった。体は重く、生活習慣を改める必要に迫られた。子ども時代、郷里の宮崎の野山を駆け回った日々を思い出し、一念発起してトレイルランを始めることにした。長野にも八ヶ岳を始めとして、自然に恵まれた山道がそこかしこにある。20年からは朝型に切り替え、平日は月水金、加えて土日も、朝4時半から1時間ほどランをこなし、体重は65kgを維持している。一度は調子に乗りすぎ、トレラン後に脱水気味になり、半日ぐらい尿が出ず、1つしかない大事な腎臓に負荷を与えてしまったと、青ざめることもあった。
抗がん剤による味覚障害は完全には回復しなかった。元から酒は強いほうではなかったが、ビールが全くおいしいと思えなくなったのだ。ビールの過飲による脱水のリスクはなくなったが、少し残念でもある。
いつまた、がんに罹患することがないとも限らないと考えているが、21年に60歳の節目に受けたドックでも何の異常もなく安堵した。
最近まで、宮田は自らのがんについて積極的に語ることはなかった。ただし、つらさに耐えかねている患者に遭遇した時だけは、実は自分もそうだったと切り出した。還暦を過ぎ、自分の闘病体験が役立つのなら、口を開くことも自分の使命ではないかと考えるようになった。「15年を経て、がんの体験が自分の中で昇華されたようだ」。
副院長として、がん診療センター長として、そしてがんサバイバーの医師として、まだまだ大きな役割を負っている。「がん診療は日進月歩。人材育成を含めて、理想のがん治療を地域で実現したい」。 (敬称略)
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