松本氏擁立の裏に影響力保つ横倉氏か
任期満了に伴う日本医師会の会長選は、当初、中川俊男会長(北海道)の続投であっさり決まると見られた。未だ1期しか務めていない中川氏が不出馬に追い込まれるとは、日医関係者の多くが想像だにしていなかったのではないだろうか。最も想像していなかったのは中川氏本人かも知れない。
既に立候補を表明していた中川氏は5月23日、東京・八重洲で記者会見を行い、不出馬を表明した。或る記者が「前回の選挙で横倉義武前会長と戦って勝利した。その遺恨は今回に影響していると思うか」と質問すると、中川氏は眉間にしわを寄せ、顔を歪ませながら、一言、「敢えてお答えしません」。質問をかわすという「大人の対応」が出来ない辺りが、実に中川氏らしい。否定すること無く、その表情は怒りに満ちていた。
2年前、5選を狙った横倉氏は当初、中川氏に会長の座を禅譲し、出馬しない考えだった。中川氏にもその意向を伝えていた。ところが、この話が一部の業界紙を通じて知れ渡ると、日医内外から横倉氏に出馬を求める声が相次ぎ、自民党の厚生労働族からも横倉氏支持の声が続出した。「中川氏はこんなに評判が悪かったのか」そう実感した横倉氏は翻意し、一転、出馬を決断する。これに中川氏は、「話が違う」とばかりに怒りを顕わにした。
「いつか自分の出番が来ると頑張って来た。2年は待てない」尾﨑治夫・東京都医師会長と金井忠男・埼玉県医師会長を味方に付けた中川氏は、横倉氏にこう言い放った。結局、横倉氏への多選批判と翻意によりぶれた印象で、横倉氏は敗れ、中川氏が初当選を果たす。たが、代議員による投票の結果、中川氏が191票を獲得したのに対し、横倉氏は174票を獲得。横倉氏の日医内の影響力は残り、遺恨も残った。
水面下で新会長擁立の動き
今回、中川氏が事実上の立候補表明をしたのは3月27日の臨時代議員会。「ウィズコロナからポストコロナ時代の医療の在り方を日医として政府に提言するという重大な使命を負っている。新たな決意を持って全国の医師会の先生方と議論を深めつつ、共に進んで行きたい」と述べた。その後、多数派工作に向け、新執行部人事について構想を描き、松本吉郎常任理事(埼玉県)を副会長として処遇する事で、水面下で話は出来ていた。しかし、尾﨑氏と金井氏はこの立候補表明に冷ややかな対応で返した。
5月のゴールデンウイーク明け、中川氏の下に松本氏が会長選に立候補するという情報が入る。動揺した中川氏は直ぐに松本氏に確認した。中川氏によると、松本氏は「そういう流れになったので、会長選に出る」と答え、「再考の余地は無いのか」と促しても、「それは無い」と返事はつれなかった。
松本氏の出馬について日医関係者は「クーデターだ」と語る。首謀者は横倉氏と見る関係者は多い。「ポスト中川」を巡っては、かねて東京都医師会の尾﨑治夫会長の名が取り沙汰されていたが、前回会長選で中川氏を全面的に支援している。中川氏を差し置いて出馬する気は元々無い。そこで中川氏に代わる人物として、首都圏の医師会から白羽の矢が立ったのが松本氏だった。
前後して、別の地域からも松本氏擁立の動きが有った。九州医師会連合会(九医連)から地理的に離れた埼玉の松本氏を推す動きが突然出て来たのだ。それは「不可解」(日医幹部)な動きとも言えた。横倉氏は言わずと知れた福岡県医師会の所属。松本氏擁立は実は、横倉氏主導だった可能性が高い。
松本氏は5月24日に東京・丸の内で記者会見した。松本氏によると、横倉氏に出馬を報告した際、横倉氏から「しっかりと勉強を続けて、医師会として国民の為に頑張りなさい」と激励されたと言う。埼玉県医師会幹部はあけすけにこう語った。「今一番力が有るのは横倉さんですよ」。
松本氏への支持は瞬く間に広がり、中川氏は身動きが取れなくなった。尾﨑氏へ連絡を取り続けたが「16年の役員在籍年数は長過ぎる」という言葉が返って来た。プライドの高い中川氏が負け戦に立候補する筈も無く、残された道は不出馬しかなかった。
中川氏は会見で「いつか終わりが来ると思っていたが、私の想定よりは早かった。やり残した事は多々有る」と悔しさを滲ませた。
中川氏の支持は何故広がらなかったのか。
新型コロナウイルス感染症は終息が見通せず、ウイルスは変異を繰り返している。医療体制を整え直す為にも、夏の参院選で組織内候補の自見英子・元厚生労働政務官を当選させる為にも、内紛をしている場合では無い。しかし、中川氏の評判は地に落ちていた。日医切っての論客、政策通と言われ、舌鋒鋭い物言いは有名だが、高圧的とも言われるその強烈な個性は日医の風通しを悪くして行った。
松本氏を支持し副会長候補となった大阪府医師会の茂松茂人会長は、松本氏の出馬会見に同席し、「風通しの良い、役職員が自由にものが言える、そして中央にしっかりと一致団結した言葉が言える、そういう日医を作って行きたい」と執行部の一員となる事への決意を表明した。この発言を中川氏への当て付けと見る向きは強い。
当の中川氏には、組織運営に対する反省は殆ど無い。会見では「私はコロナ対策を頑張った」と自画自賛するばかりで、組織運営についても「強力なリーダーシップを発揮すべきだと自分を励ましながらやって来た。その事が強権的という一部批判に繋がったと少し反省している」と述べるに止まった。反省しているのは「少し」だけの様だ。
裸の王様? リフィル処方箋制度導入が致命傷に
中川氏の会見内容を聞いた日医幹部は「閉鎖的な医師会運営に対する反省が聞かれず残念だ」と溜息をついた。
「中川降ろし」の嵐が吹き荒れた理由はこれだけでは無い。2022(令和4)年度診療報酬改定で、医師らの技術料や人件費に当たる「本体部分」の改定率はプラス0・43%で、前回(20〈令和2〉年度)と前々回(18〈平成30〉年度)の0・55%を下回った。中川氏周辺は、横倉会長時代の過去4回の平均値0・42%を上回ったと豪語するが、この値は消費増税対応分を除いた数字であり、消費税対応分を含めると0・58%に跳ね上がる。しかも、プラス要因には「特殊要因」と言われる岸田文雄首相肝煎りの看護師らの処遇改善分に0・2%、菅義偉前首相が進めた不妊治療の保険適用分に0・2%が上乗せされている。0・43%は決して褒められた数字とは言えず、事実上の「敗北」だった。日医幹部は「この敗北をより明確にしたのが、『集中』の記事だった」と語る(弊誌22年3月号・「日本医師会完敗の診療報酬改定の真相」参照)。
又、日医が長年に亘り反対して来た医師の診察を受けなくても処方箋を一定期間繰り返し使える「リフィル処方箋」制度についても、財務省に押し切られ今年度から導入された。この決定は、それ迄くすぶっていた中川氏に対する不満を増大させ、火に油を注ぐ結果となった。22年4月、「リフィル処方箋について」と題する手紙が大阪府医師会役員宛てに送付された。手紙の発信人は日本医師会副会長・松原謙二とある。松原氏に確認したが締め切り迄に回答が無かったので、発信人が誰なのかは不明のままだが、手紙の内容はリフィル処方箋を導入した経緯が中川氏の独断だと厳しい糾弾をしている。同制度は患者にとっては通院の負担が減るが、医師にとっては減収に繋がる為、日医としては何としても阻止すべき代物だった。
会見で改めて同制度の導入について聞かれた中川氏は「財務相と厚生労働相の大臣折衝で、厚労省は『医師の処方権を明確に確保した上で導入する。いわゆる諸外国のリフィルとは違う』という事で、導入されたと理解している。事前に私が単独で導入を決定したという事では無い」と釈明に追われた。
気付いてみたら中川氏は完全に孤立し、ある日医地方組織の幹部は「何の実績も無いのに支持出来る筈が無い」と突き放した。あっと言う間に流れは出来上がった。日医幹部はこうつぶやいた。
「横倉さんの恨みを買ってしまったツケが来た」。
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