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第65回 医師が患者になって見えた事 40代で2度のがんに見舞われた腫瘍内科医

第65回 医師が患者になって見えた事 40代で2度のがんに見舞われた腫瘍内科医

長野県厚生農業協同組合連合会 
佐久総合病院(長野県佐久市)副院長
佐久医療センター腫瘍内科医長・がん診療センター長
宮田 佳典/㊤

宮田 佳典(みやた・よしのり)1961年宮崎県生まれ。87年宮崎医科大学医学部卒業、佐久総合病院に入職。93年国立がんセンター東病院。2014年佐久医療センター腫瘍内科。現在副院長およびがん診療センター長。
40代で2度のがんに見舞われた腫瘍内科医

がん闘病は、その道の専門家にも訪れる。40代で2度のがんに見舞われた腫瘍内科医は、その経験を糧に理想のがん診療を追求し続けている。

早期発見したがんの治療を地域で完結したい

2021年に還暦を迎えた宮田が、医師人生の大半の時間を過ごしたのは佐久総合病院(長野県佐久市)だ。がん診療センター長の傍ら副院長職にも就き、病院全体に目配りする要職を担う。

同院は農村の小さな病院から始まり、戦後に農村医学者の若月俊一が、予防医療や巡回診療など、地域に根差した医療を展開していた。早くからスーパーローテートの研修を実施し、地域医療に高い志を抱き、武者修行を志す若者が全国から集う。

1987年に入職した宮田も、そんな1人だった。61年、宮崎市の西端に接する国富町で生を受けた。父は小学校教員だった。子ども時代は、友人と共に野山を駆け、夏休みはカブトムシやクワガタムシを夢中で追った。学業も抜かりなく、地元の進学校である県立宮崎大宮高校に進学、理系科目が得意だった。

受験勉強だけに明け暮れる日々に疑問を抱き、高校3年の夏休みから1年間米国に留学した。東海岸のボストン近郊の街で、自立心に富み、未来の青写真を真剣に思い描く同世代の姿に刺激を受け、生涯の仕事として医師を目指すことにした。教育者だった祖父や父から、「人の役に立つ仕事を」と期待されており、それにもかなっていた。

帰国後、同級生から1年遅れで高校を出ると、宮崎医大に入学。漕艇部でボートに打ち込み、地域医療や診療所に関心を寄せた。地域医療研究会の4年上の先輩から、卒業後に佐久総合病院で研修をすると聞かされた。宮田には初耳の病院名だったが、調べるうちに、若月の名著『村で病気とたたかう』(岩波新書)に行き当たった。未来への啓示を受けた思いで、佐久総合病院で研修を受けようと誓った。

87年4月、新婚の妻と連れ立って佐久に赴任した。八ヶ岳はまだ冠雪を抱き、南国育ちの2人には寒さが身に染みた。宮田は研修で揉まれつつ、専門としてがん診療を見据えた。90年代初頭、標準治療やガイドラインの整備はおろか、がん告知さえほとんどされていなかった。地域の診療所や若月の唱えた早期発見のための検診で見つかったがんに手厚く対処するため、腫瘍内科医が求められていた。「外科医が片手間にする薬物療法ではなく、きちんと抗がん剤を学び、道を究めたい」。

日本人に多い消化器がんは、今でこそ手術に併用して補助化学療法を行うのが一般的だが、当時は違った。宮田は消化器内科に所属し、内視鏡などと共に抗がん剤の知識を蓄えた。さらに93年には1年間、国立がんセンター(当時)東病院(千葉県柏市)で研修を受け、研鑽を積むことを望んだ。吉田茂昭と大津敦の下で、最先端の消化器腫瘍内科学を学んだ。

佐久に復帰後、がん診療の前線に立つと共に、消化器内科で週1回の当直や急患の対応もこなした。根を詰め多忙を極める中で、うつに陥りかけた。その後、3年ほど佐久を離れ、茨城県立中央病院(笠間市)の腫瘍内科を手伝っていたが、当初の志を果たすべく、再び佐久総合病院に戻った。

かつて抗がん剤治療は入院が主流だったが、患者のQOLを維持するには、外来で受けられたほうが良い。信念の下に、病院とも掛け合った。

異変が起きたのは、40歳を迎えてからだ。毎年の健康診断は欠かさず受けていたが、何の異常もなかった。35歳を過ぎると、節目の5年ごとに、通常の健診の代わりに人間ドックがある。2002年の年明け、宮田もドックを受けた。超音波検査で横たわると、疲れからかまどろんでしまった。10分ぐらいは経っただろうか、ふと目覚めると、まだ検査は続いていた。不思議に思い、プローブを操っていた同年輩の臨床検査技師に尋ねると、「先生に聞いて……」と口ごもった。最後の問診で、ドックの担当医から、「右の腎臓に腫瘍があり、がんが疑われる」と所見を知らされた。検査が長引いた理由に合点がいったが、不意を衝かれて狼狽した。ドックの他の検査でも、血尿などの異常はなく、もちろん痛みといった自覚症状も皆無だった。生来健康で、たばこは吸わず、飲酒もせいぜい夕食のビール1本だ。両親を含め、身内にがんを患った人はほとんどいない。発がんのリスクで唯一思い当たるのは、父親がヘビースモーカーで、子どもの時分は帰宅から寝るまで、長時間、同じ部屋で副流煙にさらされていたぐらいだ。

その日のうちにCTとMRIの検査を受けた。がんはもはや疑いないと確信する結果だったが、「早期がんだろう」と、自分なりに結論づけた。帰宅後、妻とまだ中学生と小学生だった3人の子どもたちに、がんが見つかったことを淡々と伝えた。

ステージ2のがんで右の腎臓を全摘

治療について、宮田は迷わず、経験豊富な国立がんセンターの吉田に相談した。すぐに、同中央病院の泌尿器科を受診する手はずが整えられた。受診すると、腫瘍は直径7cmを超えステージ2だが、幸い予後が良好とされる「嫌色素性腎細胞がん」というタイプだった。40歳にして右の腎臓を全摘するという決断は重かったが、切除すれば元通りの生活が送れるだろうと、やや楽観視もしていた。

初めて受ける手術は、腫瘍の大きさに鑑み開腹で行われた。傷は10cm以上に及び、麻酔が切れると強烈な痛みが襲った。しかし、転移もなく病変が取り切れたことで、気分は上向いていた。当時は腎臓がんに適応のある抗がん剤はなく、補助化学療法は行われなかった。1週間で退院、わずか2週間の休暇の後、通常勤務に戻った。外見上は何の変化もなかったが、腎機能は健常者の半分になっており、残る1つの腎臓を大切に守っていかねばならない。塩分を控えて適正な血圧を保ち、脱水にならないよう十分な水分摂取を保つ。適度な運動で、体重も増やさないようにすることも重要だ。そうした生活は、生活習慣病の予防にもつながるので、むしろ理想的だった。

“一病息災”を期して、仕事に全力投球した。02年の夏からは、待望の外来化学療法をスタートさせた。手術から4年の月日が慌ただしく流れた。再発の陰に脅え、心穏やかでない日もあったが、がん根治の目安となる「5年」まで、あと1年だ。

06年2月には、外来化学療法を拡充し、通院治療センターの立ち上げを果たした。しかし、9月頃から体調不良に見舞われた。38度を超える発熱があり、解熱剤で一時的に治まっても、すぐに再燃する。頭痛や鼻づまりの症状も消えなかったが、感冒様でもあり、優れない体調を押して勤務を続けていた。耳鼻咽喉科を受診すると、鼻の奥の鼻甲介が腫れていると、抗アレルギー薬などを処方された。だが、1カ月が過ぎても症状は治まらなかった。「がんの可能性もあるな」と、冷静に判断した。何のがんなのか、精密検査を待たねばならなかった。(敬称略)


【聞き手・構成】ジャーナリスト:塚﨑 朝子

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