①生年月日:1963年8月9日 ②出身地:神奈川県横浜市 ③感動した本:『逝かない身体』川口有美子、『首里の馬』高山羽根子 ④恩師:帝京大学薬学部 遠藤浩良教授、同 川島光太郎先生、昭和大学医学部小児科 飯倉洋治先生、名古屋大学大学院教育発達科学研究科 大谷尚先生 ⑤好きな言葉:多様性受容 ⑥幼少時代の夢:馬術のオリンピック選手 ⑦将来実現したい事:薬剤師の職能の向上と全国民の高い信頼獲得
様々な経験に恵まれた多感な幼少時代
父は歯科医師です。東京大学医学部附属病院の歯科に勤務している時に母と出会い、結婚。3つ上に兄がいます。両親はかなりの高齢ですが、元気で仲良く暮らしています。父は昭和ヒトケタ生まれなので、家では厳格で怖い存在でした。普段は無口でしたが、お酒を飲むと饒舌になって私達子供に説教を始めるので、父が酔って帰宅するという気配があると、TVを楽しく見ていても、兄とさっと自室に引き上げて寝たふりをしたものでした。そんな父も歳と共に穏やかになり、今はニコニコとしているので不思議なものです。
母はいつも朗らかで昔から困った時は先ず母に相談していました。耳はやや遠くなりましたが、今もしゃんとしていて尊敬出来る存在です。両親から「勉強しろ」と言われた記憶が有りません。かなり自由にさせてもらったと思います。幼稚園の頃に父が歯科医院を開業し、母が手伝う事になったので、数年間は「鍵っ子」でした。
幼稚園から母に言われてモダンバレエを始めましたが、母は仕事でレッスンについてこられなかったのでつまらなくなり、時々行ったふりをしてサボっていました。教室は当時住んでいた横浜市岸根の米軍基地前にあり、金網の向こうの野球場で試合をする軍人を横目に見ながらとことこ歩いて通っていました。
私は木登りが好きなおてんばでした。発表会では、「最初はケンカしていた白人の子と最後は仲良く踊る」という黒人の男の子役をはじめ、男の子の役が多かったと記憶しています。
その後、スイミングスクールに通わせてもらいながら、当時流行っていた「ローラーゲーム」という少々過激なスポーツの日本のエース・佐々木ヨーコ選手に憧れて、ローラースケートを習った事もありました。放課後は近所で靴に着けるローラースケートを履いて、皆でローラーゲームの真似事をしたものです。
私は物心ついた時から馬がすごく好きで、学校でもずっとノートの端に馬の絵を描き続けていました。馬に乗りたくて親にせがんだのですが、今と違ってネットなど無い時代ですから、いったい何処に行けば乗馬が出来るのか分かりません。小学5年生の時にようやく両親が電話帳で調べて、三ツ沢公園にある横浜乗馬倶楽部(当時)に入れてくれました。クラブに行ける日曜日が待ち遠しくて、騎乗後は可愛い馬のブラッシングなど手入れもしてとても幸せでした。馬術の試合にも出場出来るようになりましたが、高校ではバスケットボール部に入部。練習はハードでしたが、チームスポーツは素晴らしくすっかりのめり込み、馬術からは離れてしまいました。昨年の東京オリンピックでは、無観客ながらネットで素晴らしい世界一の馬術を堪能出来て嬉しかったです。馬は本当に美しい生き物ですね。
高校は部活ばかりやっていて、1年次は全く勉強をしませんでした。ところが、2年次になると化学の先生が長身で白衣姿がとても恰好良かったのです。東北大の大学院卒と先輩から聞いていました。憧れの先生と話をする為に「質問に行こう!」と企むのですが、勉強しないと質問って出てこないのですよね。それで化学を勉強するようになり、先生の様に白衣を着る仕事がしたいという事で医療系の、薬学部を選びました。
母が独立できる薬剤師を私に強く勧めてきたという事もあります。結果として本当に良かったと思っています。薬剤師になって30数年ですが、つくづく良い仕事だと思います。
大学卒業後、薬剤師としてスタート
薬学部に入った動機があまりはっきりしていませんでしたので、大学の勉強は退屈でした。授業と試験を除けば大学生活は本当に楽しくて、サーフィンやバンド活動、ドライブと、友人や先輩、後輩とワイワイ過ごした記憶しかありません。しかし薬学部は出席に厳しく、有機化学の実習を数日サボったとき、教授に呼び出されました。部屋に行くと、先生はこちらに背を向け、窓の方を向いて立っていました。私が戸惑っていると、教授は後ろ向きのままドスの効いた声でおっしゃいました。「君、実習に出席しないで単位が取れると思っているのかね」。
そんな感じで真面目な学生でもなく、卒業後の未来がイメージ出来ませんでしたが、4年次に大学病院の前の大型門前である望星薬局に実習に行き、「ここで4年やれば薬剤師としてどこに行っても通用する」という当時の石倉千代治社長の言葉に感銘を受け、就職しました。優秀でもない私は、厳しい先輩に涙がでるほどビシビシと怒られましたが、そこで勤務した7年間は本当に薬剤師の基礎を叩き込んで頂けたと感謝しています。ありがたいことに同期が22名もいて、助け合い、励まし合っていけた事も財産です。
カウンセリング教育の必要性を実感
私が薬剤師になった頃は、医薬分業が右肩上がりに伸びて行く初期でした。病院の前に門前薬局がどんどん建っていたのですが、薬剤師が患者さんに対応するにつれて、様々な問題が起きて来ました。当時の薬学部の教育には、患者対応やコミュニケーションに関する科目が有ませんでした。最初の就職先で患者の薬相談を担当した時に、単なる情報提供だけでは解決しない事を思い知りました。そこで服薬に対しての患者の迷いや不安、不満については薬剤師がしっかり寄り添ってカウンセリングを行える教育が必要で、それを薬学教育に入れて定着させたい、という強い信念が生まれたのです。その後いくつものカウンセリングの学校へ通い、薬剤師向けのカウンセリング教育のプログラムを作成しました。
最初は卒後教育から実践を始めました。するとセミナーの受講生が皆「これを大学で学びたかった」と言うのです。ある時、東邦大学薬学部の安生紗枝子教授(当時)が私のスピーチを聞いて下さり、「コミュニケーションの科目を持って欲しい」と非常勤講師としてのチャンスを頂きました。学生の反応はとても良く、複数の大学で非常勤講師をするうちに、日本大学薬学部の伊藤芳久教授からお声がけを頂き、専任講師へのチャンスに恵まれました。その後、当時の薬学部長・安西偕二郎先生のお誘いで、現在の帝京平成大学に移らせて頂きました。
今では、新入生も薬学部を目指す高校生も「薬剤師はコミュニケーションが必要」と言います。患者に寄り添う薬物療法の並走者として、未病予防から公衆衛生の分野まで、薬剤師の活躍できるフィールドは広いです。薬剤師は科学者であり、ヒューマニストであるとても魅力的な仕事です。それを多くの学生に感じてもらい、社会で活躍できる人材を育成したいと日々思っています。
インタビューを終えて
初めての出会いは銀座のバーだった。薬学の先生の紹介だ。それから十数年の月日が流れたが、益々、情報の発信力も収集力もパワーアップしている。座長を担ったある薬学勉強会では、ホステスとして和服を着て多くの参加者を「おもてなし」の精神で迎えていた。高齢社会の医療は薬剤師の仕事がより重要度を増す。活躍の場も広がるに違いない。また、大学ラグビー界の雄・帝京ラグビー部の応援団長とも言える存在は違う一面だ。選手のサイン入りラグビーボールが教授室に鎮座する。全てに真剣に取り組む姿に敬服する。 (OJ)
神楽坂 フレンチレストラン ラリアンス L'Alliance
東京都新宿区神楽坂2ー11
03-3269-0007
11:30〜13:00(L.O.)・17:30〜20:00 (L.O.)
http://www.lalliance.jp/restaurant/
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