埼玉県ふじみ野市の住宅に66歳の男性が立てこもり、母親の医療を担当していた医師が散弾銃で撃たれて亡くなった事件は、社会に大きな衝撃を与えた。とくにこの医師と同じように訪問診療に携わっている医師や医療従事者は、我が身に置き換えて戦慄を覚えただろう。
まだ事件の全容は明らかになっていないが、報道によると、92歳になる男性の母親は事件前日の午後、自宅で死去。その際もこの医師が死亡を確認するため訪問した。
そして事件当日、男性からの「焼香に来てほしい」という連絡を受けて、在宅クリニックの院長である医師やスタッフら男女7人が男性宅を訪れた際、男性は医師に「生き返るはずだから心臓マッサージをしてほしい」と要求したという。医師が「前日に亡くなった人に蘇生措置をしても救命はできない」と説明したところ、男性は散弾銃を取り出して発砲、さらに催涙スプレーを医療相談員らに噴霧したのだそうだ。スタッフたちは負傷しながらもなんとか屋外に避難したが、医師は絶命、男性はその後も立てこもりを続け、翌朝未明に身柄を確保された。
なんとも痛ましい事件で亡くなった医師には、心から哀悼の意を表したいと思う。ご家族のご心痛を思うと、いたたまれない気持ちになる。
「医療という枠」を設定することが重要
ただ、この事件そのものからは離れて、訪問診療について、また長寿化社会について、私たちはいくつかのことを考えなければならないだろう。
いちばん重要だと思われるのは、訪問診療での医師と患者や家族との距離の取り方、また医療という「枠」をどう設定するか、という問題だ。
この事件が報道された後、ひとりのベテラン精神科医がツイッターでこんな発信をしていたのが目についた。ポイントだけを抽出して紹介しよう。
「精神科だと、要求が多い患者に対して『枠を設定する』ことがかなり厳しく意識されます。ここまではやるけど、ここから先はやらない、ということ。たとえば時間外は対応しないなどですが、それをスタッフ全員で共有します。ただ、訪問診療だと『枠』が曖昧になりやすいのかもしれません」
ツイッターの短いコメントから多くを推察することはできないが、精神科医として私はこのツイートの趣旨がよくわかる。精神医療の場では、患者さんが「心の内」や「これまで秘めてきた過去の話」をすることも多い。そうなるとどうしても感情があふれ出て、ときとして悲しみや怒りといったネガティブな感情がコントロールできなくなる場合もある。また、目の前の治療者をスクリーンとして、過去に親や恋人などに対して抱いた感情をぶつけてしまい(精神分析学の用語で「投影」という)、医師などに強い恋愛感情を抱いたり、逆に憎悪の対象としてしまったりする(それぞれ「陽性転移」「陰性転移」という)。
これらは患者さん側のせいではなく、精神医療という医療の性質上、避けがたく起こることだと考えられる。ただ、「投影」や「転移」を野放しにしてしまうと、治療の効果も上がらないし患者さん、医療者も疲弊していく。そのために精神医療では「枠」をもうけて、繰り返し「これは友人どうしの対話ではなくて、あくまで医療なんですよ」ということをお互いに確認できるようにするのだ。
研修医時代の私の先輩は、患者さんとの対話が終わるときには必ず、「今日あなたが支払う医療費はいくら、健康保険を使わなければいくらですが、その値はありましたか」とお金の問題を持ち出す、と言っていた。そうすることで患者さんは、「そうか、先生は私が好きだから話を聞いてくれたのではなくて、これはビジネスなんだ」と現実を突きつけられる。そこで失望も感じるかもしれないが、医療の「枠」が示されることで自分の中で生まれたポジティブ、ネガティブな感情は沈静化されるだろう。もちろん「先生、明日も来ていいですか」と言われても、急性期で慎重な観察が必要な場合以外は、「2週間後の予約の時間にいらしてください」とそこでも「枠」に戻すようにする。
在宅医療で患者の依存をどう調整するか
ところが最近、精神医療の場も含め、多くの診療科でアウトリーチ型医療や訪問診療を手がける医師が増えてきた。「生活の場で医療を」というそのコンセプトには何の異論もない。とくに精神医療の場合、その人が暮らす場を見たり家族との関係を確認したりすることは、診断や治療方針の決定のためにも有益だろう。また、「外来に来られないならすぐ入院」という従来の施設型医療からの脱却は、医療費の抑制やマンパワー不足の解決にもつながる。何より患者さんの「最期まで家ですごしたい」という思いが実現することになる。そういう意味では、在宅医療は“よいことずくめ”だともいえる。
ただ、そこで気になるのは、先述した「枠」の問題だ。親戚のおじさんが「最近どう?」と立ち寄るように医者が訪問してくれる、というのはすばらしいことに思えるが、そこには決定的な違いがある。“親戚のおじさん”なら「明日もまた来てよ」「来週はごはん食べて行ってね」といった求めにも応じてくれるだろうが、医師だとそうもいかない。もちろん、ほとんどの人はそれを理解しているが、「枠」がない中の医療ではそれをつい忘れて医療者に依存したり、さまざまな感情をぶつけたくなったりすることもあると思う。繰り返すが、それは単に「患者がワガママだから、未熟だから」ではなくて、こういった医療では必然的に起きる可能性があることなのだ。
それをどうやってハンドリングしていくのか。最初は「24時間いつでも応じます」と笑顔で言っておきながら、あまりに訪問要請が多いと「これ以上はお応えしかねます」と丁寧な口調で断る。対応マニュアルとしてはそれ自体何の問題もないのだが、その伝え方にはデリケートな配慮が必要だ。そうでなければ、「見捨てられた」「裏切られた」と傷つき、恨みや怒りを噴出させる人もいることが考えられるからだ。
とはいえ、「枠」に縛られないことこそが、アウトリーチ型医療や訪問診療の最大の長所であるのも確かだ。地域ぐるみ、生活ぐるみ、つまり人生まるごとのつき合い、医師と患者といった関係性を越えたつき合いには、私もとてもあこがれるし、それを求める人は多い。おそらくこの流れは今後も変わることはないだろう。だからこそ、「訪問診療でどうやって医療の『枠』を設定すればよいのか」という問題をきちんと考え、医療従事者が抱える可能性のあるリスクについてもアセスメントし、対策を講じる必要があるのではないだろうか。
そしてもうひとつ言及しておきたいのは、「90代の親と60代の子ども」という関係が、従来の常識で想像できるそれからはかなり変わってきているということだ。それも訪問診療などを行う者として押さえておくべきポイントだと思う。しかしそれを論じる紙幅はもうないので、次回さらに考えてみるつもりだ。
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