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第61回 医師が患者になって見えた事 51歳で脳出血に倒れ右半身に麻痺を抱える

第61回 医師が患者になって見えた事 51歳で脳出血に倒れ右半身に麻痺を抱える

地方独立行政法人 長野県立病院機構
長野県立木曽病院(長野県木曽郡)
産婦人科長
吉岡 郁郎/㊤

吉岡 郁郎(よしおか・いくお)1959年東京都生まれ。90年信州大学医学部卒業。91年同産婦人科に入局し、同附属病院などに勤務。96年から現職。

 地域の病院の産婦人科は多忙だ。30代、40代は、激務も体力で乗り切った。50歳の坂を越えたある日、吉岡は自宅で突然の脳出血に倒れ、右半身の麻痺を抱えることになった。「治す」ことを至上命題としていた医師が、「治らない」現実と対峙しつつ、産婦人科で新たな道を極めている。

過重労働が常態化しメタボが襲う

 木曽病院の産婦人科では、常勤医師2人が交代で2日に1度“お産番”をしていた。吉岡は分娩に加え、手術、外来と精力的に仕事をこなしていた。月3回は全科当直もあった。産婦人科医は不足しており、毎週木曜は30km以上離れた伊那中央病院(長野県伊那市)の応援に出向き、外来からそのまま当直に入った。合間には、地元を中心に県内の小中高校で性教育の講演をしたり、一般向けに婦人科の講演や勉強会に参加した。「当時は、自分で自分の身が守れなければ、医師ではないとされていた」。

 吉岡は1959年、東京都田無市(現・西東京市)に生まれた。山口出身の父は自宅で印刷業を営みながら、文筆で身を立てようとしていた。7歳下の妹と両親の4人暮らしに、ゆとりがあったとは言えない。吉岡が医師を目指そうと思ったのは、開業医である母方の叔父の影響が大きかった。

 幸い成績も良く、進学校である東京都立武蔵高校に進んだ。手塚治虫の『ブラック・ジャック』を読み漁るなどして、理想の医師像を思い描いてはいたが、医師になれば勉強漬けだからと、勉学は疎かになった。3浪する羽目になり、81年に信州大学医学部に合格した。自宅から3時間ほどの距離は、両親の性格から考えると、自立するには適当な長さだった。

 当初は、野口英世ばりの研究者に憧れていた。子ども好きでもあり、臨床なら小児外科に進みたいと考えた。しかし、どちらの道も究めるのに当時は米国に留学しなければならず、経済的に無理だと断念した。小児科でがんの子どもと向き合うのも、精神的につらかった。子どもの誕生に関わり手術もできる診療科として、産婦人科を志願した。

 医師免許を得ると産婦人科に入局し、大学や市中病院での修行を経て、96年に木曽病院に産婦人科長として赴任した。当直明けで深夜まで勤務が続くこともあり、睡眠は1日に4時間も取れれば運が良いという日々。それを苦痛と感じたり、不満を抱いたりすることはなく、当たり前と受け止めていた。

 大病の経験と言えば、大学時代に椎間板ヘルニアで七転八倒したぐらいだ。その時は鍼灸や服薬でやり過ごした。50歳になるまで健康診断もろくに受けていなかった。発病直前に受けた健診で、高血圧や高脂血症を指摘されていた。身長180cmと大柄で、体重は130kgを超え、明らかなメタボリック症候群の域に入っていた。

 2010年のたばこの大幅値上げで喫煙機会は激減していたが、その3年前まで1日5〜10本を常用していた。飲酒できる日は限られたが、大の酒好きで、痛風発作で難儀したこともある。朝は食べられないことが少なくなく、17時過ぎに“中食”として妻の用意してくれた弁当を食べると、夕食は帰宅後の深夜だった。「絵に描いたような“医者の不養生”で、他人に厳しく、自分に甘い。体力を過信していた」

深夜の異変で勤務先に救急搬送

 後悔先に立たず——長年の生活習慣によって蝕まれた脳の血管は、予兆もなく静かに破綻した。2011年1月24日月曜日のこと。前日は日曜だったが、朝から出産に備えて待機し、深夜の分娩を終えた後は一睡もできなかった。翌日も、外来、手術、外来とルーティンをこなした。いつもより早めに帰宅し、入浴して夕食を取った。寝室で久しぶりにテレビを見ながらまどろむと、大いびきをかきながら寝入った。程なくして尿意で目覚めたものの、ベッドから立ち上がれない。もがいてみたが、明らかに右手・右足が動かない。とっさに脳がやられたと確信した。出血か梗塞か、頭痛はないので梗塞ではないか。出血よりダメージが小さいかもしれない……少しでも楽観的に考えたかった。

 妻を起こし、救急車を呼んでもらおうとした。かつて看護師として働いていた妻は、吉岡の声で即座に異変を察知した。すぐに高校1年の息子と中学2年の娘を起こし、2人とも不安な面持ちで手助けしてくれた。後から聞かされたところでは、娘は、入浴直後から吉岡の呂律が回っていないことに気付いていた。しかし、酔っているためだろうと考え、「あの時、私が声をかけていれば」と後悔の涙を流したという。

 ともあれ、妻の迅速な対応で、最寄りだった勤務先の木曽病院に救急搬送された。CT検査で脳出血(左被殻出血)が確認され、収縮期血圧も200mmHgを超えていたことで、基幹病院である伊那中央病院に送られることになった。40分以上かかる道のりだが、救急隊も医師たちも顔なじみで、安心して身を委ねた。妻は優しい笑みを絶やさず、「大丈夫よ」と手を握り続けた。何より心強く、「死」の淵にいると意識することもなかった。

 未明の伊那中央病院の外来で、止血薬や降圧薬を投与される処置を受けた。次に吉岡が目覚めたのは、脳卒中集中治療室(SCU)だった。そこから先の記憶は、まだら状に曖昧だ。発病から起こった一連の出来事は、まるで別人格の自分が観察しているようで、実感が乏しかった。

 入院から14日目、一般病棟の個室に移った。妻に「仕事用のパソコンを持ってきて」と頼んだようだったが、操作方法を思い出せず、そのまま放置してあった。テレビをつけても、内容はサッパリ頭に入ってこなかった。幸い、食事は左手で取れるようになった。医師になった直後、先輩から「手術をする医師は、利き手でない側も使えるようにしておけ」と言われ、3カ月ほど訓練していたことが身を助けた。

 脳神経外科の担当医から、「右半身は動きませんが、頑張って使えるようにしましょう」と告げられたことは記憶している。翌日からリハビリテーションが始まった。毎日車椅子で連れ出され、淡々と機械的に、言語療法、作業療法、理学療法とリハビリのメニューをこなした。しかし、それが何のためであるか、はっきりした認識はなかった。言葉がうまく口を突いて出ず、右半身が麻痺しているという事実は認めながら、「折れた骨が元通りになるように、そのうち何でもできるようになって、また医師としての仕事に戻れる」。漠然とそう考えていた。

 入院中の病院では、自分が診療した患者と出会うこともあり、「元気な赤ちゃんが産まれて、良かったですね」と声をかけた。周りが驚くほど、その受け答えはしっかりしていたが、脳の機能が正常に戻ったわけではなかった。「見栄っ張りの自分が、いい格好をしていただけだった」。やがて回復するにつれて、自分が直面している厳しい現実が段々と見えてきた。(敬称略)


【聞き手・構成】ジャーナリスト:塚﨑 朝子

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