臨床医の多くは「PEACEプロジェクト」という名前を聞いたことがあると思う。日本緩和医療学会が中心となって提供している「緩和ケアのための医師の継続教育プログラム」だ。そのうちの入門編にあたる「緩和ケア研修会」に、先日参加してきた。長いあいだ、がんと精神・心理との相互の影響を扱う「精神腫瘍学(サイコオンコロジー)」に関心を持ち、ときどき勉強してきたのだが、より包括的に緩和ケアについて学びたくなったのだ。
研修会にはe-ラーニングで講習を受けてからの参加となる。疼痛コントロールの医療用麻薬などはまったく扱ったことがないので、一からの勉強となりたいへんだった。ただ、現在は医療用麻薬のスイッチングや頓服にあたるレスキューの使用により、疼痛が出てからもかなりコントロールしていけることがわかった。「がんになって痛みが出たらおしまい」とか「がんの痛みはどうにもならない」といった考えは過去の遺物となったのだ。
癌と正面から向き合い旅立った知人に学ぶ
研修会の当日、会場で緩和ケアについて学びながら、私の脳裏にひとりの知人の顔が浮かんだ。毎日新聞の記者で、2021年5月、56歳で死去した三輪晴美さんだ。三輪さんは08年に「ステージ4の乳がん」と診断され、治療を続けながら記者生活を続けたのだ。
私が三輪記者と出会ったのは、たしか12年のことだった。当時、三輪記者は出版部門に所属しており、毎日新聞に私が連載しているコラムをまとめて書籍にしませんか、とメールで連絡してきたのだ。私は「もちろんお願いします」と返事をして、その後、打ち合わせや原稿の直し、表紙用の写真撮影などで何度も三輪記者に会った。
いつも明るくてテキパキと仕事を進めるこの人ががん闘病中だとは、私はまったく気づかなかった。しかし、会って何度目かのとき、なぜかお互いの身長の話になって三輪記者は笑顔でこう言ったのだ。
「私、小柄に見えるでしょう? でも、これより7cm背が高かったんです。実はがん治療を受けて背が縮んだんですよ」
私は驚いて、「よかったらもう少しくわしく教えてもらえますか」と言った。以下は、そのとき彼女から教えてもらったことだ。
08年、頑固な腰痛に悩まされていた三輪記者は整形外科医院を訪れるが、なかなか原因がわからない。ある日、「念のため」ということで受けた腰椎のMRI画像を見て、整形外科医は顔色を変えて、「今すぐ大きな病院に行ってください」と告げた。彼女の腰痛は、乳がんの骨転移から来ていたのである。それどころか、首や頭の骨までがん細胞が破壊している可能性まである、と告げられた。「多発性骨転移」の状態だ。
それから関西の地元に戻って実家近くで治療を受けることを決意した三輪記者は、神戸市立医療センター中央市民病院を受診する。主治医はユーモアのある人で、不安でいっぱいの記者とその母親に笑顔で「だいじょうぶ。これくらいの骨転移があっても、すぐにゴルフができるようになった患者さんもおるから」と言い、すぐに抗がん剤治療が始まった。
幸いにして抗がん剤は奏功し、乳がんそのものも骨転移した腫瘍もかなり小さくなった。ただ、気づいてみたら身長が治療前より7cmも低くなっていたという。「抗がん剤で脊椎のがん細胞が急速に消えたため、健全な骨の形成が追いつかなかった」ということだった。
「こんな言い方はなんですけど、だるま落としみたいにがんでやられた骨が消えて、残った部分がくっついたんでしょうね」と彼女は笑った。私は「7cm背が高かったときの彼女」を知らないので、いま目の前にいる三輪記者になんの違和感もなく、「仕事のできる元気な女性」にしか見えなかった。そう伝えると、「そうかも。でもがんはまだ完全に消えてないから、今後も抗がん剤治療が続くんですよね」と言っていた。
本ができてからはそれほど頻繁に会う機会はなくなったが、やり取りは続き、ときどき「山登りに行った」「外国旅行に行く予定」といった近況が送られてきた。また、14年からは出版部門から異動して本紙の記者となり、ときどき毎日新聞紙面にも彼女の署名記事が載るようになった。
感心したのは、娘がステージ4のがんと知って最初は動揺していた関西の実家の両親も、抗がん剤治療後は東京に戻っての職場復帰や海外旅行などを応援していたことだ。一度、「ご両親は、仕事やめて帰ってきなさいと言うんじゃないの」ときいてみたことがあったが、「そう言われてもきかないってわかってるから(言わない)」とのことだった。心の中はそうではなかったかもしれないが、「とにかく娘のやりたいようにやらせてあげよう」と決めたのだろう。
三輪記者は18年、大阪本社学芸部へ異動となったが、文芸や美術、そしてがん治療に関する取材や記事としての発信は続き、私もときどきそれを目にした。大阪での彼女は、それまでよりもいっそう、がん患者さんやがんで大切な人をった家族への取材に力を入れたが、記事にはいつもあたたかみやユーモアがあふれ、深刻な内容でも読んでいてこちらもホッとすることが多かった。彼女自身、抗がん剤をかえたり、その影響で足の骨折を経験したりと厳しい闘病生活が続いたようだったが、記事からはそんな様子はまったくうかがえなかった。
患者に「最善の道」となる治療方針を考える
亡くなる1年あまり前には、自身の署名記事にこんな言葉をつづっている。引用させてもらおう。
「『人は生きてきたように死んでゆく』。そんな言葉がある。性格や年齢、周囲の環境、がんの種類や闘病の長さによっても道は変わるはずだ。
がん患者のゴールはさまざまだ。誰もが最期まで穏やかに過ごせるわけではない。科学的根拠のない治療に走ることは論外として、人によっては最期まで効果の見込めない治療を続け、苦しみながら旅立つこともある。
正解はない。それでも、最善の道を選ぶにはどうすればいいのか。がん患者に限らず、全ての人にとっての課題だ」(「がん・ステージ4からの眺め」、『毎日新聞』20年3月15日)
緩和ケア研修会では、事前の学習よりもさらに具体的に医療用麻薬の使い方や副作用への対処法などを学んだ。そこで得たものは大きかった。しかし、いくら知識を増やしても、三輪記者が言うように、ひとりひとりの「ゴールはさまざま」で「正解はない」のだろう。私たち医師はしっかりとした知識を持ちガイドラインを頭に入れながらも、あくまで目の前の個別の患者さんに向き合い、そのつど考えて、ともに治療方針を決めていくしかない。私は、研修会に参加してますますその思いを強くした。そして、その帰路、すっかり暗くなった空を見上げて、天国にいるであろう三輪記者に「私の考え、間違ってないよね?」と声をかけたのだった。
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