尾道での少年時代
1946年(昭和21年)1月14日、「文学の街」「映画の街」で有名な尾道に生まれました。「海の町」でもあり、父は海産物を扱う佃煮の製造業を営み、母は当時としては教育熱心な小学校教師でした。小さい頃は近所の友達と外で遊び回る「いらち」な子でした。「いらち」は関西の方言で、落ち着きがないという意味です。精神修行も兼ね習字教室に通わされたのですが、上達が早く月謝が無料の特待生になり、小学4年生の時に広島県大会で審査員特別賞を受賞しました。その時に頂いた色紙の「金剛心」(動揺しない強い心)の言葉が印象的で、座右の銘になりました。
地元の久保小学校ではヤンチャながらも学業優秀で、名門の広島大学附属福山中・高等学校に入学しました。当時、京都大学や大阪大学等の関西の大学への進学がほとんどでしたが、新幹線の開通や東京オリンピック開催で、東京大学(以下、東大)も視野に入るようになりました。その頃に檀上信雄先生と出会いました。先生は「野球の甲子園があるなら、勉強の甲子園があっても良いじゃないか」と、先輩が後輩に勉強を教える部活のような場の「竹林寺道場」を作られ、多くの学生を難関大学へ導きました。私も大学へ進学した年に夏合宿の形で2週間後輩を指導しました。「竹林寺道場」は数年前に檀上先生が亡くなるまで50年以上も続きました。竹林寺の三重塔は現在、東京目白の椿山荘の庭に移設されていて、縁を感じますね。
東大医学生時代
医師よりは研究者になりたい気持ちが強く、研究が出来るのは医学者かな、という事で東大医学部に進学しました。でも、学生運動で1年半もロックアウト状態で授業も試験もなかった。急な呼び出しがあるといけないという理由で、本郷三丁目にあった私の部屋は友人の溜まり場と化しました。昼間はガチャガチャとパイを振り、そのままパタンと寝て、翌朝また麻雀を始めるというくすぶった生活でした(笑)。また、「踏朱会」という美術クラブにも参加していて、指導して下さった樋口加六先生のご自宅が鎌倉大仏付近にあり、よくお邪魔していました。このクラブで妻と知り合いました。今、振り返るとあの1年半はものすごく特別な時間だったんでしょうね。
東大が無くなってしまう危機感から学生運動は終結していきましたが、入学時の仲間は進級がバラバラになってしまい卒業アルバムもありません。私は「移澄会」という写真部に所属していたので、今「卒後50年アルバムを作ろう」と声を掛けて、原稿や写真を集めている最中です。
麻酔科を進路に、そしてYale大学へ留学
心臓外科へと考えていましたが、麻酔科実習の際に清原廸夫先生と出会い、考えが変わりました。清原先生は疼痛外来をされていて、当時、一応メルクマールはあるのですが神経ブロックも感覚でやっているのにピタッと痛みが無くなるのは面白い、と。そこで麻酔科に進み、山村秀夫教授にお世話になりました。
卒業して2年後、米国で活躍されていたLuke M. Kitahata(北畑昌彦)先生がYale大学の麻酔科の主任教授になられ、母校の東大の研修生を受け入れる話が山村先生に届き、「君が行きなさい」という事に。4カ月後には米国へ渡り、臨床実習が始まりました。英語もよく分からず、手術場ではマスク越しに話すので余計分からず大変困りましたが、麻酔科の臨床経験があったのが救いでした。3年目からはポストドクトラルフェローになり、電気生理学の疼痛機構、制御機構の研究をやっておられた北畑先生の下で、脊髄の後角に存在する痛覚伝達細胞について研究し、帰国後も疼痛メカニズムの研究を続けました。当時は有給休職制度(3年間)がありましたので、今と比較すると大変恵まれていましたね。
東大麻酔科教授時代に「痛み外来」を創設、皇室との関わりも
3年間の留学を終えて帰国。東大病院医局長、附属病院分院麻酔部長、救急部長を併任。研究も並行して続け、1991年に教授に就任しました。そこで、研究体制にも目を配り、痛みの研究以外に呼吸・循環の学生の論文発表や研究会にも顔を出し、各分野の研究主任を決める等腐心しました。その中で、「痛みセンター」を作って外来を開始しました。痛みは1つの診療科目では解決しない事も多いため、整形外科・脳神経外科・神経内科・精神科等も関わる総合的なセンターを目指しました。子供の頃、予防接種が痛くて嫌だった事から、「ペンレステープ」という貼付用局所麻酔剤や「エムラクリーム」を開発。また、痛みを数値化する事を目的とした「ペインビジョン」という商品も開発しています。どれも患者さんの痛みを除いてあげたいという思いからです。
昭和天皇の術後ケアで宮内庁に出向いてから、平成天皇の手術や雅子妃殿下のご出産時も麻酔担当になりました。戦前の方にとって天皇陛下は神様ですので、若い私が選ばれたのかもしれませんが、昭和天皇と肩を組んだり、リハビリをしたりと。記者に見つからないよう帰宅するのは大変でした。「大喪の礼」は小雪降る寒い日でしたが、モーニングコートの上にはコートを着れませんよって言われ、寒くて寒くて参りました(笑)。平成天皇の手術の主治医は北村唯一先生で、私は麻酔を管理しました。健康になられた後、北村先生と一緒に皇居内のご自宅にお招き頂きました。
「痛み」への思いと後輩へのメッセージ
今、力を注いでいる医療はペインクリニックと慢性疼痛です。日本には2000万人の慢性疼痛の患者さんがいて、その内、難治性の方が20%もいます。長寿でも動けずに苦しんでいては意味がありませんので、痛みの治療が大事なのですが、その治療は難しい。高齢者は動かないと筋力が落ちて動けなくなるので、痛いから休もうではなく、筋力を保つために動く事が必要です。痛みがある人は認知症の発症率が低いという数字もありますので、痛みを感じる事も大事です。診察する際は、「体温・呼吸・脈拍・血圧」、そして「痛み」を第5のバイタルサインとして知って頂きたいです。
若い世代の医師がこの分野に入って、AIや最新の知識とツールを使って頑張ってくれるといいですね。患者さんは高齢者が多いので専門等は関係なく、痛みと関係の無い話も含めて何でもお話になります。慢性疼痛の患者さん方にとっては、外来がコミュニケーションの場であります。要領よく病状だけを話す方は少ないですよ。痛みではなく患者さんその人をよく診て、時間を掛けて話を聞いて欲しいですね。患者さんを大切にする事が1番大事です。
インタビューを終えて
ご実家が私の母の近所と知り驚いた。尾道は農林大臣や都銀頭取、小説家と多種多彩な人を輩出しているが頭脳比べではピカ一に違いない。国民の6人に1人と言う慢性疼痛患者を救うエースとして医学界を牽引した。その切っ掛けは幼少時の注射嫌いと言う。イエール大学留学時代の恩師の下で疼痛の研究を開始し、帰国後に日本初の「麻酔科・痛みセンター」を東大病院に創設。先見の明がある。「患者の痛みは当たり前」の日本の医療を劇的に変えた功績は大だ。また、麻酔科医として天皇のオペに立ち会う等、豊富な経験話は後輩に受け継がれるべき宝だ。(OJ)
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