医療法人真生会 真生会富山病院(富山県射水市)
麻酔科医
原田 樹/㊤
耐え難いほどの痛みを感じながら、原因が不明で、医療者からも誤解を受けやすい。臨床実習が始まった5年生の夏に線維筋痛症の診断を下された原田は、医師になるという使命を貫き、なお自分の道を模索しながら前進し続けている。
小さな痛みが次第に増幅し立ち上がれない
2010年、富山大学医学部5年生となった。4月から各診療科を回る病院実習が始まっており、念願の医療現場に立ち、希望に満ちていた。
異変は8月半ばに訪れた。最初はさざ波のようだった。朝起きると、両足の太ももの裏側にピリピリ痛みが走った。その晩は体勢を変えて寝てみたが、翌朝も痛んだ。痛む箇所に触れても変わった点はなく、何かしていれば痛みの存在を忘れた。しかし、痛みの広さと強さは日に日に増していった。足も重くだるく、このまま歩けなくなるのではないかと思えた。
現在の勤務先で、自宅に近い真生会富山病院を受診した。医学部に入学式の日、整形外科で椎間板ヘルニアの手術を受けており、総合病院として何かと頼りにしていた。皮膚科で帯状疱疹を否定され、血管炎の疑いで生検を受けたが、異常はなかった。整形外科では関節リウマチも疑われたが、血液検査の値も正常だった。
しかし9月に入り夏休みが明ける頃、痛みは上半身にも及んでいた。座っているのもつらく、肉がそがれるような鋭い痛みだった。重大な疾患が隠れているのではないか。「慢性痛」「痛み」「全身」……など思い付くままの単語を入れインターネットで検索すると、線維筋痛症や筋・筋膜性疼痛症候群という、聞き慣れない病名が出てきた。
大学の臨床実習はリウマチ・膠原病内科から再開した。思い切って指導医に相談してみたが、急性期であったことや、他の膠原病とは病歴が一致しないこともあり、膠原病は否定的で、線維筋痛症という病名には懐疑的ですらあった。経験豊富な医師の診断を仰ごうと、さらに検索した。その結果、線維筋痛症を専門とする最初の主治医に出会った。
診断によると、発症は小学生時代で、今回はその急性増悪との見解だった。原田は活発で学業成績も良く、手のかからない子だったが、肩こりや全身の倦怠感を覚えることがあり、心配した母は整体院で治療を受けさせていた。思春期になると、重い月経痛や月経前症候群に悩まされ、体調が万全という日は月の間でも限られていた。大学入学後は低用量ピルを服用してコントロールしていた。
「初めて診断名がつき、それまでの不調がすべてそこに起因すると分かり、少し気が軽くなった」
線維筋痛症は中年期の女性の発症が多く、日本に約200万人の患者がいるとされる。激しい痛みで検査しても、骨、筋肉、関節に異常は見つからない。生体は痛みを察知すると脳内の神経伝達物質を放出し、それを抑えようとする。線維筋痛症患者はこの経路がうまく作用しないと見られている。痛みの原因が明らかでないため、患者は、詐病、妄想、うつ病などではないかと医療者から疑いの目で見られ、共感が得られないことがある。
全身に120カ所の麻酔注射で痛みを緩和
最初の主治医はトリガーポイント注射を得意としていた。これは局所麻酔薬を圧痛点に注入していくものだが、注射針は細いためそれ自体の痛みはない。原田の場合は120カ所にも及んだが、疼痛に即効性があると実感できた。
10月に入ると37℃以上の発熱が続き、結局、真生会富山病院に入院した。慢性疲労症候群の可能性があるとされ、当時同院が取り組んでいた「西式甲田療法」を受けることにした。体質改善のため、断食や玄米生菜食で摂取カロリーを制限し、運動法や温冷浴などを組み合わせる治療だ。
引き続き、2週おきにトリガーポイント注射のための通院もした。どちらの治療も症状の緩和に有用だったと思えた。しかし、1カ月、2カ月……時間経過と共に注射の効きが悪くなり、ついには帰りの自動車内で痛みがぶり返すようになった。往復3時間の道のりは母が運転してくれたが、それでも負担は大きかった。
投与できる局所麻酔薬には上限があり、主治医は「これでは鍼灸と変わらないな」と漏らした。原田は、なら注射から鍼灸に切り替えてみようと決断した。
原田は1984年に東京で生まれた。美容関係の仕事をしていた両親は伸び伸びと子育てをしたいと群馬県に移住し、2歳から高校卒業まで太田市で育った。中学時代、生徒会でユニセフの募金活動をして、アフリカには医療を受けられずに命を落とす子どもが多いことに衝撃を受け、医師を志した。
2浪したが医学部合格は果たせず、2005年に富山大学薬学部に入学した。しかし、高校3年生の家庭教師をしながら自分も学力を蓄え、翌春医学部に合格。報告を受けた両親は絶句したが、再入学を祝福してくれた。長らく思い入れのある職業に就くため、闘病で遅れをとりたくなかった。入院中も最低限の研修に出席し、与えられた課題をこなして補完した。
母はいずれ父と共に富山で暮らすつもりで、原田が医学部3年生になった頃、一足先に来て同居していた。一人っ子で、姉妹のように仲が良く気の置けない母娘関係だった。入院直前の原田は体調も精神面も底辺にあった。自力で歩けなくなった姿を、母に見せることは忍びなかった。外傷後のリハビリとは違い、杖や車椅子を使えば、もう後戻りができないのではないか、ととことん後ろ向きだった。
原田は、母に手紙を書いて手渡した。対面で話せば、泣き出して言葉を継げなかっただろう。「ママ、ありがとう。病気になって、ごめんなさい……杖をつくかもしれないし、車椅子に乗るようになるかも……」。母は母で、できるものなら娘と替わってやりたいと思っていた。
臨床実習には必死に食らいついた。大学まで車椅子で、病院内は杖をついて移動した。同級生にがんを患い、抗がん剤治療をしながら参加している学生がいた。「自分が軽い病気だと思えてしまった。病に負けたくなかった」。
12月に退院後も、自宅で緩やかに甲田療法を続けた。トリガーポイント注射の替わりに、保険で受けられる鍼灸院に通い始めた。「経済的、肉体的、精神的に続けられる治療選択が大事」と考えており、それに叶った治療だった。
線維筋痛症と診断されてから、匿名のブログで発信を始めていた。2011年1月には、地元のテレビニュースで10分間ほど原田の特集が放映された。「同じ病気を患うブログ読者とのやり取りから、自分以上に“難民”になっている人が多いと知った。医学生の私ができることは啓蒙活動」との思いからだ。体調はなお不安定だったが、1年後の国家試験に向け奮起を誓った。(敬称略)
【聞き手・構成】ジャーナリスト:塚﨑 朝子
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