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未来の会

第12回「私と医療」ゲスト細川 亙 独立行政法人地域医療機能推進機構(JCHO) 大阪みなと中央病院 病院長・美容医療センター長

第12回「私と医療」ゲスト細川 亙 独立行政法人地域医療機能推進機構(JCHO) 大阪みなと中央病院 病院長・美容医療センター長
GUEST DATA細川 亙(ほそかわ・こう)①生年月日:1954年9月15日 ②出身地:熊本県 ③感動した本:「日本国憲法 法律学体系コンメンタール篇1」宮澤俊義、「植皮の歴史」倉田喜一郎、「足利一門守護発展史の研究」小川信 ④恩師:住友病院形成外科部長 薄丈夫先生(故人) ⑤好きな言葉:『山より大きい獅子は出ぬ』 、『明日は明日の風が吹く』⑥幼少時代の夢:高校生の頃まで、自分の将来について考えたことはなかった ⑦将来実現したい事:日本の美容医療を真っ当な医療にすること、世界から羨望される医療にすること
父母のこと、そして出生から高校生まで(於熊本)

 1915年(大正4年)、細川一門分家筆頭の細川内膳家に生まれた父は、子供の頃に起きた家の没落(破産)に人生を翻弄されました。細川家の誇らしい歴史を息子らに伝え聞かせることもなく、家族への口癖はただ「武士は喰わねど高楊枝」でした。一方、母は阿蘇地方の裕福な名家の娘として19年(大正8年)に生まれ、当時の女性では珍しく上京し大学に進学しています。しかし、縁談相手の家柄に目が眩んだ両親のせいで苦難の後半生を歩みました。

 私は三男として54年(昭和29年)に熊本市・花岡山の麓で生まれました。地方公務員の父1人の薄給では6人家族の生活は苦しく、父は畑で芋や野菜を作り、私は肥えを汲んで畑に撒く手伝いもしました。貧しいながらも学問を尊ぶ両親のお陰で兄弟は高校まで公立、大学は国立に進み、私は大阪大学(以下・阪大)では育英会の奨学金を頂きました。臨床医はあらゆる人々を相手にするので、私の育った環境は役に立っていると思います。高校は県下一の進学校・熊本高校です。学園紛争時代の生徒議会議長も務め、熟読したエマ・A・フォックス著『会議の知識』の会議運営技術はその後の人生に役立ちました。多彩な校友にも恵まれ楽しい高校生活でした。卒業時に答辞総代に選ばれましたが、生徒で構成される委員会作成の答辞を読むのが嫌で総代を辞退し、卒業式は欠席しました。

阪大医学生時代と形成外科開設のミッション

 母の強い願いで、阪大医学部に進学しました。父も「そうですか、薬師(くすし)になりますか」と喜んでくれました。医学部の授業はまるで面白くなく進学を後悔しました。そこで、医学の勉強と両立で興味のあった法律の勉強を始めました。憲法、刑法、民法等の法律書や、判例百選、ジュリスト等、独学を続け、司法試験を受けると2次試験短答式試験に合格。法律の勉強時間は2年間で4000時間ほどになりましたが、論述式試験は突破出来ず、医療医学の世界で生きていくことを決めました。

 79年に優秀な成績で卒業し、半年だけ阪大で皮膚科研修を受け、形成外科に進むことを決めました。当時の阪大には形成外科専門の医師がいなかったことや、自身の経済的な理由から阪大を辞め、大阪市中之島の住友病院(以下・住友)で研修医になりました。この当時の住友は稀に見るレベルの高さがあり、形成外科主任部長の薄丈夫先生をはじめ立派な先輩や同僚に恵まれました。一旦、香川医科大学の形成外科学教室に異動し博士号を取得して、再び住友に戻りました。私は、良き指導者がいる・症例が豊富・本人に能力(努力する能力も含めて)が有る。この3つが良い外科医が育つ条件だと考えていますが、当時の住友にはそれが揃っていました。

 その後、阪大皮膚科教授選を巡る話や様々な理由から、住友と阪大皮膚科内形成外科グループとは抜き差しならない険悪な関係になっていました。そんな状況下でしたが、阪大グループ員達が後任のグループ長に、敵とも言える住友の私の着任を望んだので驚愕しました。そこで、一旦住友から関西労災病院に部長として転出し、1年後に阪大皮膚科学教室講師(形成外科グループ長)に着任するという複雑な人事となりました。着任後、この人事を承認していた第6代教授の吉川邦彦先生には大変温かいご指導を頂きました。

 私は15年間、叶わなかった悲願の形成外科診療科の独立を目指し、3年後の97年12月、ついに大蔵省予算原案に「阪大病院に形成外科診療科を新設すること」が入りました。私の形成外科医人生の中で一番嬉しいことでした。そして45歳で全国最年少となる形成外科教授に選出されました。

阪大の教授から大阪みなと中央病院院長に

 大学の本分の教育・研究・臨床の3分野を発展させるべく尽力し、同時に教室運営の資金集めのため形成外科分野で日本初となる寄附講座を3つ作り、総額は約6億円でした。企業が興味を持つアイデアを捻り出すのも教授の重要な仕事の1つです。

 また、日本形成外科学会の理事長や第60回日本形成外科学会総会の会長を務め、教室員からは兵庫医科大学や新潟大学等、複数の大学の教授輩出を果たし、2017年には歴史上7人目となるアメリカ形成外科学会名誉会員の栄誉も頂きました。

 JCHOの尾身茂理事長から阪大に、当院の病院長適任者の推薦依頼が届きました。長い間、赤字病院でしたので、皆が院長就任を固辞する状況でした。達成困難な「病院経営の健全化」のミッションは面白いと考え、18年4月、2年の教授定年を残して当院院長になりました。着任後から3年の間に病院移転を行い、口腔外科、美容医療センター、血液腫瘍内科の3つの診療科を新設し、このミッションは、ほぼ達成しました。

これまでの形成外科医人生を振り返って

 私は「目標に最も効率的に到達できる道筋」を探し出す能力があると最近自覚してきました。若い頃は上昇思考に基づいた人生を歩んでいましたが、阪大皮膚科内形成外科診療グループ長に着任した頃から生き方が変化したようです。統括責任者としての生き方を実行し始めました。日本形成外科学会の理事長時代に「理事長在任期間は阪大のためではなく日本の形成外科のために尽力する」と宣言。その立場に相応しいことをしないのならば、その立場に就くべきではないという思想です。

今後のミッションは?

 日本の保険医療は高水準で、国民皆保険制度もあります。これは厚労行政の成果ですが、美容医療を含む保険外医療(自費医療)は監督官庁の役目を放任している面があり、死亡を含む様々な被害の実態さえ把握されず、未だに明治や大正、昭和初期の美容外科のままです。私は美容医療を健全化する難しいミッションを背負うことを決め、当院に美容医療センターを設置してセンター長に就任しました。美容医療分野を個人クリニックに任せるのではなく、大病院の中の真っ当な医療にしたいとの思いからです。

 また、美容医療で生じた様々な健康被害の治療について、厚生労働省が医療機関に、健康保険で行ってはならないと指導していることを知り、この健康保険法に違反する指導を撤回させる活動もしています。難しいことは分かっていますが、「美容医療の健全化」は、私の形成外科医人生最後のミッションだと思って取り組んでいます。


右:中国料理 星ヶ岡料理長の小林昇さん

インタビューを終えて
世が世ならのお殿様に違いない。細川忠興と明智光秀の直系子孫が刀からメスに持ち替え、世界もが認める形成外科医になった。洒脱な会話力は多くの仲間を作り若くして教授に上り詰めた。美容医療の問題点を鋭く指摘し、美容被害者を救うための改革の先頭に立ち、突き進む姿は武将そのものだ。問題のある美容外科を排除する活動に世論は期待をする。(OJ)

中国料理 星ヶ岡

東京都千代田区永田町2-10-3ザ・キャピトルホテル 東急2F
11:30〜15:00(L.O.14:00) 
17:00〜20:00(L.O.19:00)
www.capitolhoteltokyu.com 
※営業日、営業時間に変更がある場合がございます。 店舗 HPをご確認ください。


第12回私と医療_細川亙

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