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未来の会

第11回 私と医療 ゲスト南渕 明宏(昭和大学横浜市北部病院 循環器センター 教授)

第11回 私と医療 ゲスト南渕 明宏(昭和大学横浜市北部病院 循環器センター 教授)
GUEST DATA
南渕 明宏(なぶち・あきひろ)①生年月日:1958年3月3日 ②出身地:奈良県橿原市 ③感動した本:「火の鳥」手塚治虫 ④恩師:明法学院高校1年の時の担任 野口和恵先生 ⑤好きな言葉:『不立文字』 ⑥幼少時代の夢:金髪のハリウッド女優と結婚する事 ⑦将来実現したい事:八紘一宇
幼年の頃

 1958(昭和33)年、奈良県橿原市の自営業の家の次男として生まれました。家の前の十字路は「札の辻」と呼ばれる古跡でした。

 小学校では体が大きいわりには運動神経が鈍く、勉強も周りから遅れてばかりでしたが、根が楽観的なのか、それでも楽しく過ごしていました。そういえば、この頃に受けた「知能テスト」でIQが146と判定され、学校で大騒ぎになりました。

 小学校4年生の時に父親が多額の借金を残して失踪し、残された家族は「夜逃げ」「一家離散」となりました。とにかく大人が苦労している様を生々しく観察することが出来ました。「7歳にして一家は離散」の「木枯らし紋次郎」みたいでしょ。小学校5年生で大阪に転校して、「田舎者」とイジメられ辛い時期もありましたが、いつもネコがそばにいて、心を癒やしてくれました。

 中学校では勉強が楽しくなり、「東大でも受験してやろうか!」などと考えるようになりました。担任教師に「お前のように協調性がない奴は医者にしかなれないぞ!」と的確な進路指導を頂きました。『白い巨塔』 を読んで、「医師は高給で、患者に対して権力を行使出来る上級国民でカッコイイ!」と感じました。正真正銘の下層クラスでしたから、「人生、いかに餓死しないで生き残れるか」という手段として医師になるのは有効だと思いました。

 更に高校1年生の時、蓄膿症になって立川共済病院を受診した時のことです。若いお兄さん医師が診察してくれたのですが、その時のそいつらの態度の横柄さ、不親切さに度肝を抜かれました。「医者ってこんなバカでもやって行けるんだ! 楽な仕事じゃん!」と確信したのです。

医学部時代、そして心臓外科医を目指した訳

 一浪して奈良県立医科大学に入学しました。大学ではドイツ語、英語、生物学、生化学、神経内科の各教授からは特別濃厚なご指導を頂きました。色々とスポーツの部活に参加しましたが、先輩とケンカばかりしてすぐに辞めてしまったりして、中途半端でした。スポーツなんて学生時代にしか出来ません。本当にもったいないことをしたと、未だに悔やんでいます。

 臨床実習の時、耳鼻科や麻酔科の医師から「心臓外科医なんて常人には無理!」とアドバイスを頂き、「この人達、心臓外科を凄く妬んでいるな! 人から妬まれる人生を歩まなければ!」と考え心臓外科を選んだ訳です。

 昭和大学は素直な研修医ばかりです。とにかく私のように根性がひん曲がった研修医はいません。大変に物足りなく感じます(笑)。

医師として

 40歳代は神奈川県大和市や都内の民間病院で心臓外科手術をさんざん執刀しました。革命家チェ・ゲバラ の金言「ゲリラは守ったら終わりだ。攻めないといけない」を常に実践していました。私は心臓外科の医療業界で好き放題暴れまわるゲリラだったのです。

 ところで、心臓外科医はある意味「労働者」です。病院、手術室、コメディカルといった「生産手段」は所有していません。頑張ったらそれだけ報われるのですが、いわゆる労働再生産経費としての俸給しかもらえません。昭和大学横浜市北部病院のお話を頂いた時に「こっちが面白そうだ!」と飛びつきました。大きな「物件」で全診療科がそろっている「優良な生産手段」を使わせて頂ける条件で、いい意味で「守れる」と感じたのです。

 手術を終えて退院する時でも患者さんは不安を抱えています。「自宅で何かあったら、どうしたらいいんですか?」と尋ねてきます。心臓は手術で治ったのだから「何かある」としたら、他臓器で「何かある」可能性の方が高いと思ってしまいます。とは言うものの、私が患者さんにとって「何が起こっても何とかしてもらえる存在」であるというのは、大切だと感じています。持ち前の突破力を発揮して、何にでも対応が出来るようにありたい、と思います。

 ところで、今回のコロナ禍は医療界に大きな影響を与えました。初診の患者さんも継続診療の患者さんも外来を控えたようです。これからはネットが活用される「New Normal」の時代になるように言われてはいますが、健康保険証の代わりにマイナンバーカードが活用出来るシステムは早々に座礁したようです。「無能」「利権漁り」「丸投げ」「接待」「ワイロ」「天下り」が横行する今の行政にこれ以上振り回されないよう、「普及することなど、今生ではない」と我々医療人は心づもりすべきでしょう。それにこの制度は外国には筒抜けになるのでしょうね。間違いなく。

 フランスの経済学者ジャック・アタリ氏は、医師が今後どんどんプロレタリアート化していくと予言しています。プロレタリアートというのは生産手段を持たない労働者ということですが、「使用者が自由にこき使える」という意味での「自由な労働者」です。標榜する診療科を医師が自身で選べなくなる、という時代の到来です。埼玉の大学病院では実際、コロナ禍で外科系専攻医がコロナ対応を強いられました。欧米諸国では医学生がコロナ治療の現場に「従軍」しています。火急の対応とは言うものの、医師の偏在を解消する名目で、「医師のプロレタリアート化」は今後現実化していくと思われます。

心臓外科医のライバル達

 ニューハート・ワタナベ国際病院の渡邊剛先生は、敬愛する同志です。卓越した才能と矜持があり、徹底的に結果にこだわるプロ中のプロ。「ダヴィンチ」 は彼が使う限りにおいて、素晴らしい医療機器です。順天堂大学の天野篤先生と20代で知り合ったことも私の財産です。新東京病院で1年3カ月の間、彼から本当に多くを学びました。

 他にも大川育秀先生、吉田成彦先生、高梨秀一郎先生、道井洋吏先生、夜久均先生、樋上哲哉先生、浅井徹先生など、日本の心臓外科を牽引した傑物がほぼ同学年にいます。

 心臓外科医は誇り高き仕事です。その尊厳と誇りを絶やさず、人が出来ない事、やりたがらないことにチャレンジする戦士であり続けたいと思います。同時に、「人生は壮大なヒマつぶし」だと考えています。とにかく「面白そうな事」をやり続けています。これからも「今、自分が立たされている心臓外科医としての立場」を見据えながら、面白おかしく日々を有意義に過ごしたいと考えています。


インタビューを終えて
『集中』の創刊3号(2008年6月号)から「説示一物」の連載をお願いした。きっかけは前号での取材時に物事をはっきりと話す南渕院長に興味を持ったからだ。1回目のタイトルは「謝礼消滅」だ。スタートから南渕節が炸裂した。これまで感謝の気持ちを謝礼と称した日本社会のルールが医療界から消滅した事を一例として、医療界へ押し寄せる変化を書いた。この連載は見事に人気ページになり、2017年7月号まで9年間の長期連載となった。最後の言葉は「強い人間はいる。誠実で信念があり、行動する。彼は時に身の危険を感じても動じず、潔く戦う。これから各分野で出没することを期待する。そして、無関心な大衆の心を動かすことを」。この言葉は南渕先生の生き様に違いない。あれから13年。今、教授となったが、全く変わらない南渕先生がいた。今でも攻めの考え方を貫いている。連載開始当時は、小さかった2人のお嬢さんも揃って医学部生に成長した。大きな父親の背中を追い続けた2人に、父親としてどのように接しているのだろうか? 興味が湧く。(OJ)

対談場所】盤古殿 馬車道TERRACE店

神奈川県横浜市中区北仲通5-57-2
北仲ブリック&ホワイト2F
045-211-5252
https://bashamichi.bankogroup.jp 
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第11回私と医療_南淵明宏

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