「生まれてはいけない命」を決める事に反対の声も
世間が新型コロナに気を取られている間に、人類の未来が変わるかもしれない1つの重大な決定が決まりかけている。産婦人科医でつくる「日本産科婦人科学会(日産婦)」が、重い遺伝性の病気が子どもに伝わらないように受精卵を選別する検査「着床前診断」の拡大に向け、舵を切ったのだ。
これまで表向きはごく限られた範囲で行われてきたこの検査が拡大されれば、不妊治療を受ける夫婦がいずれ自分達の好みの子どもを作る「デザイナーベビー」が現実のものとなる。「生まれてはいけない命」を医療者が決めて良いのだろうか。倫理的に重大な課題を一学会が決める事に、内部からも疑問の声が上がっている。
着床前診断とは、女性の体から取り出した卵子と男性の精子を体外受精させて出来た受精卵(胚)から一部の細胞を取り出し、遺伝子や染色体を調べて病気の有無を調べる検査。病気の可能性がない受精卵は女性の子宮に移植されるが、病気が見つかった場合は移植されない。
出産前に胎児の病気を調べる検査としては羊水検査や血液検査で胎児の特定の病気を調べる出生前診断があるが、こちらは母親の子宮で育っている胎児を対象に行われるものだ。妊娠してからの検査という事で母体への危険もあり、病気が見つかり妊娠の継続を望まない場合は、人工妊娠中絶をする必要がある。
これに対して、受精卵を検査する着床前診断は子宮に移植する前に病気の有無を調べる事から、母体への影響はない。遺伝子や染色体に異常がある受精卵は、妊娠初期に流産しやすい。異常が見つからなかった受精卵を移植すれば、妊婦に精神的、肉体的なショックを与える流産の可能性も減る。
都内の病院に勤める産婦人科医は「日本でも既に着床前診断は行われているが、成人するのが難しいとされる重い遺伝病の他、繰り返し流産をする場合に限り、1件ごと審査の上で行われている」と解説する。審査は日産婦が行い、国内ではこれまでに約120件が行われた。
日産婦の方針に反してまで行う背景
ところが、である。この医師は「不妊治療で有名な医療機関の多くは、大学病院等ではなくクリニックだ。次世代シーケンサーの登場により、全ての染色体を解析して異常を見つける事は容易になっており、日産婦の審査を申請する事なく水面下で着床前診断をやっているのではないか、と噂されている医療機関はいくつもある」というのだ。
日産婦の方針に反してまで着床前診断を行うメリットは果たしてあるのだろうか。
生殖医療に詳しい大学教員は「何より妊婦からの需要がある」と明かす。遺伝病を持つ夫婦にとって、それが子どもに遺伝するかもしれないという不安は、子どもを持つかどうかの決断に関わる。「今回、日産婦が着床前診断の拡大を容認する方向になってきたのも、遺伝病を持つ夫婦からの求めが大きく関わっている」(同教員)という。
これまで、日産婦の審査によって着床前診断が認められたのは、幼少期に発症し、歩行困難となるデュシェンヌ型筋ジストロフィー等、成人になるまで生きられないような重い遺伝性疾患のみだった。ただ、医療の発展により、デュシェンヌ型筋ジストロフィーの患者の寿命は延びている。
「幼少期に発症し、有効な治療法がなく、成人になるまで生きられないという日産婦が着床前診断を認める厳しい条件は、時代に合わなくなってきている事は事実だ」と日産婦関係者も認める。
こうした現状から、日産婦の審議会は2月7日、着床前診断を認める疾患を拡大する案を公表。現時点で有効な治療法がなく、患者への負担が大きい高度な治療を必要とする疾患を対象とする、とした。また、診断を認める「成人に達する以前に日常生活を著しく損なう状態の重い遺伝性疾患」の「成人に達する以前に」を削除。成人してから発症する重い遺伝性疾患についても着床前診断を認め、実施の際は日産婦が意見書を出すにとどめ、審査は各実施施設(医療機関)の倫理委員会で行う事とした。
日産婦だけで決めるには大き過ぎる
生命の根源に影響する重大な判断にもかかわらず、日産婦が着床前診断の拡大に舵を切ったきっかけとなったのが、一昨年、遺伝性の目のがん「網膜芽細胞腫」の患者から出された着床前診断の希望だ。失明の恐れがある重い疾患だが、命に関わる事は稀であり、従来の日産婦の審査では認められない可能性が高いケースであった。
前出の産婦人科医は「自分の持っている遺伝子のせいで子どもが同じ病気に苦しむのは、親としては耐えられない。こうした親の願いに応えられる技術がある以上、願いを叶えたいと思うのが現場の医師の心情だ」と理解を示す。だが、その一方で、着床前診断が一学会の審議で拡大していく事にこの医師は懸念を示すのだ。
「着床前診断を行えば、例えば男女の産み分けは完全に可能となる。病気の受精卵を排除するわけではなく、親が希望する性別の受精卵を選ぶとすれば、医師の抵抗も少ないだろう。だが、この行為も医師が受精卵を選別している事に変わりはなく、優生思想に繋がる一歩だ」
生物の遺伝情報を書き換える「ゲノム編集」の新たな手法を開発した研究者が昨年のノーベル賞化学賞を受賞する等、遺伝分野の研究はものすごい早さで進歩している。科学誌のライターは「障害を持つ受精卵を排除するという現在の着床前診断から、ゲノム編集技術を使って親の希望に合わせた受精卵を創造する領域にまで発展する時代はすぐそこまで来ている」と断言する。
「着床前診断」をどこまで許容するかは、科学の進歩にどこまで倫理を働かせるかという問題だ。障害を持つ人を生まれないようにするのか、それとも社会で生きやすいようにするのか。はたまた、親の好みに沿った子どもを作る事は許されるのか。もちろん、「中絶」の問題も避けて通れない。
「日本では母体保護法により、人工妊娠中絶をするには『身体的、経済的理由により母体の健康を著しく害する恐れがあるもの』と限られている。胎児に異常がある事を理由とした中絶は認められていないのに、異常がある受精卵を排除する着床前診断は認められるのか、疑問が残る」と全国紙記者は話す。そうした「倫理面」の課題を、産婦人科を中心とする医師と当事者である親にのみ押し付けて良いのだろうか。
「日産婦には着床前診断を拡大したい医師もいれば、慎重に考える医師もいる。世界の潮流を考えれば拡大の方向に行くだろうし、今後、新しい技術が生まれて新たな課題が出る事もあり得る。日産婦は患者団体や日本神経学会等の意見を聞きながら方針を決めてきたが、事は専門団体の意見だけで決めるには大き過ぎるのではないか」と日産婦に所属する前出の産婦人科医は訴える。
親と同様に当事者である「生まれてくるはずの命」は声を上げる事が出来ない。「せめて国民1人1人が問題を我が事として考える事が、生まれてくる事が出来なかった命への責任ではないか」(同)。
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