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コロナ禍で分かった「日本の公衆衛生」の実力 ~スペイン風邪と戦った経験が現代にも生きている~

コロナ禍で分かった「日本の公衆衛生」の実力 ~スペイン風邪と戦った経験が現代にも生きている~
松谷 有希雄(まつたに・ゆきお)1949年埼玉県生まれ。75年北海道大学医学部卒業。聖路加国際病院小児科研修医、同チーフレジデント。80年米国ピッツバーグ大学公衆衛生大学院修了。81年厚生省入省。省内各局、防衛庁及び茨城県庁、石川県庁を歴任。2005年厚生労働省医政局長。07年国立療養所多磨全生園長。12年国立保健医療科学院長。15年国際医療福祉大学副学長。19年日本公衆衛生協会理事長。

コロナ禍にあって公衆衛生の重要性が再認識されている。感染拡大を抑えるには公衆衛生に基づいた1人1人の行動変容が欠かせない。公衆衛生の拠点とも言える保健所はマンパワー不足の状態を抱えたまま奮闘を続けている。我が国の公衆衛生の歴史は長く、100年余り前のスペイン風邪に対しても、現在と変わらない対策を立てて乗り切ってきた。日本の公衆衛生について日本公衆衛生協会の松谷有希雄理事長に話を聞いた。


——公衆衛生協会には長い歴史があるのですね。

松谷 前身となる「大日本私立衛生会」が設立されたのが明治16年(1883年)ですから、大変長い歴史を持つ団体です。昭和6年(1931年)に日本衛生会となり、昭和26年(1951年)に日本公衆衛生協会となっています。現在の協会は、公衆衛生の向上に関する様々な事業を行う事で、健康で文化的な国民生活の推進に寄与する事を目的として活動しています。具体的には、公衆衛生に関する調査研究や、公衆衛生対策に関する奨励や助成といった仕事を行ったりしています。研究会や講習会の開催、機関誌である『公衆衛生情報』の発行や図書の刊行も行っています。また、全国衛生部長会、全国保健所長会、全国保健師長会等の事務局も担っています。更に、災害支援事業、地域保健総合推進事業、在外被爆者保健医療助成事業、国際協力事業も、この協会の重要な仕事です。

——理事長に就任して2年ほどですが、どのような方針で協会の運営に当たっているのですか。

松谷 今年の夏で2年になります。公衆衛生というのは医学の1つの分野ですが、社会との接点があるのが特徴で、社会活動の一種でもあります。ところが非常に地味な仕事ですので、その意義を一般の方にもっと理解していただく事が出来ればと思っています。それと同時に、アカデミアの方達にもしっかり理解していただこうと、そういう方針でやってきました。

——医学の中でも特殊な分野ですね。

松谷 臨床で働いている医師は、目の前の患者さんを助けることに専念するわけで、その仕事には当然やりがいがあります。公衆衛生の分野は、集団を相手に全体のレベルを上げて、あるいは行動変容を促して、多くの人を助けていくわけですが、結果が出るのがずっと後になったりする事もあります。なかなか分かりにくいところがあるのです。ただ、コロナ禍になって、公衆衛生の重要性が改めて認識されるようになっているのではないでしょうか。一般の人達の間でも、公衆衛生に対する見方が変わってきたように思えます。

感染症は「遠い存在」になっていた

——コロナ禍以前、一般には感染症にそれほど危機感を持たない人が多かったように思います。

松谷 世界的にはSARSや新型インフルエンザ等の流行がありましたが、少なくとも日本では、感染症が一般の人から遠い存在になっていました。医師や看護師といった医療従事者にとっては、院内感染という身近な問題はありましたが、それ以外の感染症がこんなに猛威を振るうとは思っていなかったのではないでしょうか。感染症の問題は、既に半分は解決されたという気持ちの人が多かったと思います。

——そう言われていた時代がありますね。

松谷 戦前から戦後しばらくは日本人の死因第1位は結核でした。それが脳卒中に変わり、がんに変わってくる中で、一般の人にとっては感染症が遠い存在になっていったのだと思います。公衆衛生が扱うのは感染症だけではありませんから、脳卒中やがんを対象とした公衆衛生の取り組みが行われてきたわけです。もちろん、それぞれの時代で感染症に対する公衆衛生の活動は行われてきましたが、優先順位が下がっていたのは事実でしょう。そこに新型コロナウイルス感染症という新しい感染症が登場してきたわけです。それによって感染症に対する公衆衛生が注目され、期待されているのは事実だと思います。

——保健所の仕事が急に増えて大変そうですが。

松谷 以前は人々の生活の身近なところに保健所がありましたが、最近は数も減り、保健所という存在を知らない人さえ珍しくない状況になっていました。そんな状況で、昨年の始めから新型コロナウイルスの感染拡大が始まったわけです。気が付いた時には感染が広がっていて、待ったなしの状況になっていました。しかし幸いな事に、我が国には各都道府県、政令市等に保健所がありました。昔に比べれば保健所の数は大幅に減少していましたが、それでも全国にきちんとした体制が構築されていたため、それをフルに活用する事で新しい感染症に立ち向かう事が出来たと言えます。

大幅に減少した保健所の数

——保健所が出来たのはいつ頃なのですか。

松谷 1937〜38年にアメリカのロックフェラー財団が資金を出して、国立公衆衛生院が開設されたり、保健所のモデル施設が作られたりしました。国立公衆衛生院は国立保健医療科学院の前身です。現在は埼玉県和光市に移転していますが、かつては東京・港区白金台にあり、現在も歴史的な建築が残っています。日本の保健所は、戦争に向かう時代に、アメリカの力を借りて誕生しているのです。戦後、保健所法が改正され、全国の保健所が整備されていきました。保健所法によって国が各都道府県等に補助金を出し、その体制を維持してきたわけです。多い時は全国に850を超える数の保健所がありました。人々の健康的な生活を実現するために、保健所の果たす役割は非常に大きかったわけです。

——保健所の数が減った理由は?

松谷 地方分権の推進の中で保健所法が大幅に改正されて地域保健法が制定され、保健所の受け持つ役割が少し変わったという事です。私は厚生労働省にいた時、この分野を担当していないので、詳しくはお答え出来ませんが、知っている範囲で言えば、根底にあったのは国の財政問題だと思います。国が都道府県に補助金を出すのではなく、地方交付税交付金にして、都道府県が優先順位を付けて予算を組めるようにしたのです。それによって、自治体の自由度が高まり、保健所の整理も出来るようになりました。保健所の数は現在では500を割り込み、2020年には469になっています。もちろん交通機関が整備された事等、保健所の数を減らしてもいい理由はあったと思いますが、減らし過ぎたように思えます。

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