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未来の会

第139回 「教育熱心」が「教育虐待」に

第139回 「教育熱心」が「教育虐待」に

今年も入学試験のシーズンがやって来て、受験生の子弟を持つ読者は緊張の日々が続いているだろう。私は私立大学の教員として毎年、入学試験の監督業務を行うが、保護者らしき人がわが子を送り迎えするという光景はすっかりおなじみのものとなった。試験のあと、指定された場所で子どもを待つ保護者は母親が多いが、男性の姿も増えた。受験生が心配そうな家族のもとに駆け寄って笑顔で「終わったよ」などと報告しているのは、なかなか微笑ましい。

 ただ、すべての親子、家族がそうやって一心同体となって受験を乗り切っているわけではない。メンタル科の診察室にはときどき、「親に勉強を強いられてつらかった」と訴える若者、ときにはミドルやシニアの人たちまでがやって来る。

 文筆家、評論家として活躍する古谷経衡氏が出した『毒親と絶縁する』(集英社新書)には、本人の意思とは関係なく勉強や一流校への入学を親が強要する「教育虐待」という問題が取り上げられ、大きな話題になっている。

 本書を出したあとのインタビューで、古谷氏はこう語る。「『自分の人生設計を生まれた瞬間から勝手に決められていた』というのが、根本的にはキツいですね。特に父親にものすごく強い学歴コンプレックスがあって『お前は絶対に俺が行けなかった北海道大学に合格するんだ』と決められていました。その北大に行くためには、北大進学率の高い高校に当然行くんだということで、そのためだけに学区がある場所のマンションを買うんですよ。まだ僕が幼稚園の頃の話ですよ!?」(「毒親『北大に合格しなければクズ』『パニック障害は気のせい』数々の壮絶虐待を受けた古谷経衡が語る、絶縁のススメ」、「FINDERS」2020年12月8日配信)。

 かつて「孟母三遷」という言葉があり、子どもに良い教育を受けさせるために居住地を変えてまで環境を整えるのは、教育熱心な親として肯定的に評価された。現在も公立高校に学区制が適用されている地方では、子どもがそこを受けられるように家族ごと引っ越したり親戚の家に子の住民票を移したり、という話はときどき聞く。

「子どもの意思」は不可欠

 特に医学部受験を考える場合、大都市の有名な塾に子どもを毎週末通わせるために、親がその近くにワンルームマンションを借りたり購入したりすることもあるだろう。

 こういう場合、話を聞いた人は、「そこまで家族一体となって受験に打ち込んですごい」「恵まれた中で勉強できてお子さんは幸せだ」と感心するのではないだろうか。

 ただし、そこには「子どもの意思」が不可欠だ、と古谷さんは言うのだ。子ども自身もそれを望むか、せめて「お父さんはこうしてほしいんだけどどうだろう」と意思を確認するならまだしも、古谷氏のように「人生設計が生まれた瞬間から決められていた」と感じると、「教育熱心」は「教育虐待」になってしまう。    

 「そんなにイヤなら途中でそう言えば」と思う人もいるかもしれないが、たいていの場合、親は聞く耳を持たない。あるいは「家族がここまで犠牲になったのに」などと言われると、そのまま言い出せなくなってしまう子どももいる。

 子ども側から「教育虐待」を訴えられた保護者に診察室で会ったことが何度かあるが、もちろん父親や母親らにも言い分がある。この人たちが決まって口にするのは、「この子に良かれと思ってやってきたことだ」というセリフだ。「先生もご存じのように、医学部受験はたいへんなんです。それは本人の意思がはっきりするまで待つべきだというのはわかりますが、それじゃ間に合わないんです。幼児教室、私立小学校、中高一貫の名門校に行ってさらに塾に通って、それでも医学部にはなかなか入れません」。

敷いたレールから外れた場合の親の態度

 それはたしかに間違いではない、と私は思う。ただ問題は、もし途中で子どもが別の道を目指そうと思ったとき、さらには親の敷いたレールの上を走ってきたのに、結局、目標が達成できなかったときに、どういう態度で接するか、ではないだろうか。親ががっかりするのは致し方ないとしても、『あなたなんて、うちの子ではない』と子どもの人格や存在を否定するようなことはしない。これが最低限のルールだろう。

 私の知人の医師で、途中までは医学部受験を目指していたひとり息子が、高校に入ってから突然、お菓子職人になりたいと言い出した、という人がいた。知人は病院を開業しており、息子が跡継ぎになるのを期待していただけに少しは悩んだようだが、すぐに「やりたいようにやらせよう」とふんぎりをつけた。

 そして知人とその妻は、お菓子の専門学校に行ったあと、海外に修行に行きたいという息子を全面的に応援。帰国してケーキ屋に勤めていた彼がついに自分の店をかまえたときには、両親は知り合いという知り合いに案内のハガキを送った。私のところにも届いたハガキには、手書きで「親から見てもなかなかの味です。ぜひお立ち寄りください」と記されていた。その人は医師としても優秀でその分野では尊敬を集めていたのだが、人格的な成熟が医師としての技量を支えているのだな、と納得した。

 もちろん、なかなかここまで子どもの意思を尊重し、その選択を信頼する、というのはむずかしい。ただ、「子どもに良かれと思って」という気持ちの奥には、実は親の独善やエゴがひそんでいることも多い、と自覚するべきだとは思う。

 親子一体となって受験に臨んでいるとき、「もし志望校に合格できなかったら」と想像するのはむずかしい。ただ、親側は一度くらい、「万が一合格できなくても、いまと同じようにこの子を愛し、守れるだろうか」と自分に問うてほしい。そこで、「あたりまえだ。合格しようとしまいと、かわいいわが子には変わりない」と思えたら、まったく問題なし。しかし、ふと「不合格だったら……子どもに対する見方が少しは変わるかもしれない」と感じてしまったとしたら、今回のテーマの「教育虐待」という単語を思い出してほしいと思う。

 古谷氏はその後、原因不明のパニック障害に苦しむ中、「自分が受けてきたのは『教育虐待』だったのだ」と気づき、親と絶縁する道を選ぶ。そしてその後は、自分らしいヘアスタイルやファッションを楽しみ、文章を書いたりメディアで発言をしたりして才能を発揮し、いまや若手論壇人の第一人者にまでなっている。親の抑圧や支配からの解放がいかにたいへんで、それがうまくいったときにはいかにその人を輝かせるかがよくわかる。

 冒頭にも記したように、多くの親子は基本的には“仲良し”で、お互いになんでも言い合えたり同じ目標を目指したりしているのだと思う。しかし、古谷氏のこの本が話題になり売れていることを思うと、「私が受けたのは教育虐待だ」と思っている人は意外に多いのかもしれない。いくら仲が良くても親子は独立した人格、という基本だけは忘れないでほしいと思う。

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