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未来の会

透析は人生の終わりでなく始まり

透析は人生の終わりでなく始まり

 慢性腎不全を抱える赤井は、2017年末から透析を導入することになったものの、毎日の在宅透析の恩恵を受けつつ、人生を謳歌している。

先天性腎疾患の手術で腎機能が一気に低下

 2015年9月、赤井は父が亡くなった節目の年、先まれつきの「腎盂尿管移行部狭窄症」の手術を受けた。右の腎臓と尿管の狭窄部をつなぎ直すもので、腹腔鏡下で体の負担が少ない手術だった。

 手術後は腎機能が改善するはずだったが、左右の腎臓のバランスが崩れ、健常な左側に負担をかける形で急激に悪化した。管理栄養士から指示されて極端なタンパク質制限食を実行すると、低タンパク血症からネフローゼ症候群になった。両足がむくみ、腹水も溜まって、再度入院となった。

 退院後の赤井は、この先には血液透析か腎移植しかないと気落ちして、病院を転々とした。腹膜透析で著名な医師のいる病院を受診したが、毎週検査を繰り返すのみで時間だけが過ぎていき、腎機能は坂を転げるように悪化していった。2017年11月末にはeGFR値が10台まで落ち、クリニックを一時的に休診せざるを得なくなった。末期腎不全の域に近かったが、主治医は、まだ透析の適応だとは考えていなかった。

 12月に入ると、赤井はアンモニア臭を覚え、小さな黒い虫が見える幻覚も生じてきた。尿毒症ではないかと必死に訴えたが、これも否定された。しかし、その晩から明け方にかけ、咳き込んで息苦しく、自院のネブライザーで吸入治療をすると、ピンク色の痰があった。赤井は、肺水腫に伴う泡沫痰で、自分は尿毒症で、それもかなり悪化して心不全を起こしていると推測した。12月20日に入院し、重度の喘息発作にステロイド薬が投与されたが、それ以上に腎機能悪化が深刻だった。

 もう、夫や娘、そして母の顔を2度と見ることができないのではないかと感じるほど苦しく、打ちのめされた。赤井が医学生だった頃、「透析になれば、人生終わり」といった風潮があったが、研修医に懇願し、やっと透析を開始してもらえた。尿毒症は改善したが、その病院には見切りを付けることにした。シャント(血流を確保する血管)作成にも待機が必要だと聞かされており、他院に行って日帰り手術で作成してもらった。

 透析は、自宅に近いクリニックで受けることにした。週3回、1日ないし2日おきに通い、4時間横たわる。体調は万全とは言えず、色素が沈着して顔色は黒ずみ、日常生活の制約も大きかった。赤井は、大学時代の教授から在宅透析について聞きかじっており、それを頼みの綱とした。地元の千葉県で在宅透析に対応する医療機関を探し、玄々堂君津病院(君津市)と巡り合った。

 准看護師資格を持つ夫も、介助者としての3カ月の研修を受けてくれた。毎晩11時頃、夫が針を刺してくれ、早朝まで眠りながら透析を受ける。1カ月もすると体調は上向き、やがて見違えるようになった。食欲も出て生きる楽しみが戻った。

 休診から再開した後、在宅透析装置をクリニックに置いた。自戒を込め、自分の患者には透析に陥るようになって欲しくないという意味があった。しかし、患者の1人は、「先生のような透析患者に糖尿病を診てもらいたくない。最低な医者だ」と言い放って、出ていった。

 それ以外の患者たちには、休んで心配をかけたことを詫び、透析で復活したことを伝えると、温かく迎えられた。「よく頑張りました」「先生なら、悪くなった先のことまで分かるから、そうならないようにしてくれる」。落ち込みはしたが、診察室という居場所に戻れたことは何よりもうれしく、徐々に自信を取り戻した。「透析を回していれば、普通の生活が送れる」

子宮体がんがビタミンC注射で消える

 赤井の趣味は、おいしい物を作ること、そして、食べることだ。毎日の透析によってタンパク質制限が不要になり、食べ歩きの楽しみが戻ってきた。懇意にしている神戸のフランス料理店が提携するリヨンにある有名店に行ってみたいと思った。

 調べてみると、リヨンにはタサン透析センターという長時間(6〜8時間)透析を受けられる施設があり、旅行者も利用できるという。赤井は、透析条件や血液検査の結果などの必要書類を自ら作成し、夏休みに夫と共にリヨンに旅立った。滞在中は1日おきに3回透析を受け、目当てのフランス料理を堪能するだけでなく、病院食も楽しんだ。透析導入のマイナスのイメージが払拭でき、何でもできると心から実感した。

 赤井は料理も趣味で、料理教室に通ったり、食べた味を再現したりすることを楽しんでいる。以前は、糖尿病患者向けの料理教室も開催していた。今も毎日手作りする弁当は、季節の食材を組み合わせる。塩分は控えめ、糖尿病を考慮に入れて主食の米飯は糖質を抑える。SNSに弁当の写真を載せることも、励みになっている。

 透析導入を機に、同じく透析を受ける仲間たちと交流を始め、訪ねることもある。30年以上も透析を続けている仲間からは、勇気をもらえた。夫婦で旅行を楽しみ、2019年は北海道の噴火湾(内浦湾)で白鮭釣りを満喫した。家族の絆も深まった。一人娘は大学生となり、家を離れて暮らすようになった。両親の背中を見て育ったこともあり、健康を支えるための栄養士を目指している。

 2020年は未曾有のコロナ禍があり、クリニックの外来は予約制として、訪問診療にも力を注いでいる。そして3月、衝撃的なことがあった。当直勤務のアルバイト中のある晩、不正性器出血があった。慌てて産婦人科医である母の診察を仰ぐと、子宮体がんだという。研修をした千葉大学病院で確定診断を得たが、不要不急の手術は難しく、1年間の待機を求められた。赤井は大きく打ちのめされた。県外の著名な病院まで出向いたが、透析患者はリスクが高いと、手術を拒絶された。

 何かできることはないかと探り、代替療法である高濃濃度ビタミンC注射の効果を知った。腎不全患者は、高濃度のビタミンCは使うことができない。であればと、毎日の透析後に2〜3mgのビタミンCの注射を続けた。すると、ヘモグロビン値が上がって貧血が解消された。気持ちも上向いてきたところ、7月に千葉大学病院が手術に踏み切ってくれた。術後の病理検査で驚くべき結果を知らされた。がん細胞が消えていたという。

 赤井は透析を受けつつ、医師の仕事も家族の役割にも全力で打ち込む。新たな夢も生まれた。在宅透析を軸としたクリニックを開くことだ。透析患者は全国に約30万人いるが、在宅透析を受ける人は700人にとどまる。「透析は人生の終わりでなく、始まりだった。仕事を続けて、社会に恩返しをしていきたい」
(敬称略)

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