赤井 留美江(あかい・ るみえ)1965年千葉県生まれ。90年埼玉医科大学医学部卒業、千葉大学循環器内科入局。98年るみえ内科小児科開院。
第47回
るみえ内科小児科(千葉市)院長
赤井 留美江/㊤
先天的な腎疾患に、妊娠中に発症した糖尿病などが重積し、赤井留美江は2018年末に血液透析を導入することになった。人生を楽しむ気持ちはより一層強くなり、新たな夢も芽生えてきた。
小学校低学年で血尿がありIgA腎症
1965年3月、千葉市内で自宅に隣接して産婦人科の有床診療所を構える両親の下に生を受けた。当時としてはしゃれた名前は、占い師が付けた。幼い頃から活発な子で、食べることが大好きだった。小学校入学時には体重が40kgあり肥満気味で、その頃から腎臓に問題が見つかっていた。
1年生の時、最初の血尿があった。1回限りのことだったが、翌年にもまた同じような血尿があった。共に産婦人科医の両親は、娘が性早熟症で初潮が来たのではないかと疑ったものの、腎臓の障害だろうということで落ち着いた。
赤井は幼児期から扁桃腺を腫らすことがあり、両親は血尿が関連していると見抜いた。扁桃腺の炎症では免疫物質のIgAが産生されるが、これが腎臓の糸球体に蓄積して炎症が引き起こされるとIgA腎症となる。両親はすぐに扁桃腺を摘出する手術を受けさせることにした。IgA腎症は慢性腎炎に至る場合があるが、その予防のため今はスタンダードになっている治療だ。
その後の赤井は健康診断で引っかかることもなく、充実した子ども時代を過ごした。勉強もまんべんなく得意で、運動も好きだったが、それ以上に食べたため、思春期には体重が100kgを超えた。
医師を目指したのは、間近で働いていた両親の影響が大きい。現役で埼玉医科大学に入学した。下宿生活で自炊を始めたが、体重はなかなか落ちなかった。卒業後の進路に悩む頃、両親は、メスを持たない専門科へ進むように勧めた。産婦人科は出産という幸福な場面に立ち会えるが、厳しい面に多く遭遇することも聞かされていた。あまり多忙だと家庭と両立することは難しくなるだろう。
そんな中で、赤井は循環器内科に強く引かれていた。かつては、心筋梗塞などの虚血性心疾患に対しては冠動脈バイパス手術などの外科治療をするより他なかった。しかし、普及途上にあったバルーンカテーテルで治療すると、患者は痛みもスッと消えてみるみる回復する。決着が早く付くことも、自分の性に合っていると感じた。かつて腎臓を患ったことで、腎臓内科にしようかと迷ったが、卒業後は千葉大学の循環器内科に入局した。
研修医はハードワークだ。カテーテル治療に加え、核医学検査など覚えるべきこと、すべきことは多い。医師になって3年目、核医学検査の正常人のデータを取りたいからと頼まれ、自身も検査を受けることになった。
健康だと思っていたが、放射性医薬品が副腎に集積していることが明らかになった。放射線科医からは副腎腫瘍、それも稀少がんである褐色細胞腫の疑いがあると告げられた。20代の赤井は大きく動揺した。褐色細胞腫であれば高血圧などの症状があるはずだったが、血圧は全く正常だったため、むしろ腎臓に異常があるのではないかと今度は泌尿器科で腎臓のシンチグラムを受けた。
すると、はっきり異常が突き止められた。右の腎臓に先天性の腎盂尿管移行部狭窄症があり、それが原因で腎盂が腫れていると分かった。一刻を争う症状というわけではないため、10年か20年先に手術を受けてはどうかとの診断だった。その頃になれば、負担の少ない内視鏡下の手術を普通に受けられるだろうとのことだった。
出産を機に体重が増加し糖尿病が進行
それ以降はあまり病を顧みることもなく、循環器内科での研修を続けた。数年後、会食をきっかけに知り合った男性と結婚した。奮起して1日に1000kcalという食事制限を続けた結果、結婚式を挙げる頃には体重を75kgまで落とすことに成功。程なく子どもを授かった。妊娠の経過は順調だったが、出産が近くなって妊娠糖尿病が発覚。高血糖は一過的なもので、出産後血糖値は元に戻ったが、体重は減らず糖尿病へと突き進む。
20代最後の年に娘を授かると、産休明けから病院勤務に復帰し、傍らで開業の準備を進めていた。学究的なことより多くの患者に向き合うことに興味があり、早く地域医療に貢献したいと考えた。両親が開業したのも共に35歳と若かった。
夫は当初、大手ゲームメーカーでグラフィックデザイナーをしていた。結婚を機に、医療従事者になって開業を手伝ってほしいと赤井が願い出ると、夫は一念発起して看護学校に入り、准看護師免許の取得を目指した。赤井自身は子育てに診療にと多忙な日々を送る中、食生活に気配りをするのがやっとだった。
1998年、33歳で念願のクリニックを開設した。夫は事務長兼看護師として右腕となってくれた。幼い娘を育てながら小児科の臨床知識も蓄え、内科と小児科を掲げた。幸いクリニックを軌道に乗せることができた。娘を預けていた保育園の園長から、病気の子どもを抱える親の窮状を知らされ、負担を軽減できればと、病児保育を併設した。
一方、健康は徐々に蝕まれていた。病院勤務では病棟と外来を行き来するだけでも運動になったが、毎日座りがちの生活になり体重は増えていった。母から受診を勧められたが、多忙で時間を捻出することが難しかった。定期健診を受けると血糖値やHbA1cに異常が出た。食事制限を厳格にするとコントロールできたが、ストレスで悪化することもあった。一進一退を繰り返しながら、自覚症状がないまま糖尿病は進行した。
生活は公私共に充実していた。千葉県は海に囲まれている。娘に魚の名前を教えたいと、娘が幼い頃から家族で釣りに出かけた。2015年春には、400人余りが参加した外房の釣り大会で、イサキ5匹で2629gという釣果を挙げて優勝した。
その年、父が亡くなった。赤井も50歳を迎えており、節目の年だった。長らくそのままだった先天性尿管移行部狭窄症の手術を受けようと決断した。クリニックのスタッフの女性が左右の腎臓の下方部分が癒合した「馬蹄腎」という先天性腎疾患を抱えていたが、手術によって切り離すことができ、結婚に漕ぎ付けていた。そうした手術ができる大病院であれば大丈夫だろうと受診し手術を願い出た。泌尿器科の主治医はリスクを考えて反対を唱えていたが、赤井は腎機能の改善に期待をかけ、手術に踏み切った。 (敬称略)
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