新型コロナウイルスの感染拡大が続く中、医師が関係した衝撃的な事件が発覚した。
昨年11月、京都でひとり暮らしをするALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の依頼を受け、宮城県と東京都の医師が胃ろうから鎮静剤を投入して死に至らしめていたのだ。
2人は嘱託殺人の容疑で逮捕された。
ALSを始めとする難病の苛酷な終末期はしばしば社会問題になり、オランダやルクセンブルクなど本人の意思での安楽死が合法化されている国が紹介されることもある。
とはいえ、当然のことながら、それらの国では厳密な手続きが必要で、主治医が安楽死を認めないケースの方が多くなっている。
一方、今回のケースでは、亡くなった患者と医師たちはSNSで知り合い、ダイレクトメールでやり取りをし、鎮静剤の投与は初対面で行われた。
報道によると、医師たちの患者宅の滞在時間はわずか10分だったという。
ツイッターの内容はあまりに非人道的
さらに驚かされたのは、1人の医師がツイッターなどを使って繰り返し、自身の医療観、死生観を発信していたことだ。
ここでツイッターのいくつかを引用したいが、あまりに非人道的な内容なので、注意の上、読んでほしい。
「経済的な生産性でいうとマイナスでしかない認知症老人に人生からめとられて、退職を余儀なくされるとか、ほんとボケ上がった老人を長生きされることに俺は興味も関心もない」
「意味などないでしょう。ゾンビを無目的に生かして、国民の皆様から診療報酬を賜るというだけ。バカらしくて新人はやめていくし、生活の糧と割りきった人だけが感情棄てて業務に当たる」
「予後不良なのに治療に人生とカネを費やす意味があるんすかね」
「死ぬべき人がひとしきり死んだら、コロナ騒ぎも終わって経済回るんじゃねえのかな」
また、この医師たちは2人で『扱いに困った高齢者を「枯らす」技術』というタイトルの電子書籍も出していた。
つまり、彼らは安楽死や尊厳死を肯定していたことは確かだが、その根底にあったのは経済合理性だ。回復の見込みのない人が生きているのは、「カネの無駄」としか考えていなかったのだ。
それは、先の医師が2016年に投稿したこのようなツイートからも明らかだろう。
「議員定数を若干減らすよりも、尊厳死法とか安楽死法を通した方が財政は持ち直すと思うけど」
一方、亡くなった患者は、元はアクティブなキャリアウーマンとして海外にも頻繁に出かけ、建築や設計の仕事に携わっていた。
彼女もまたツイッターやブログを利用していたが(全身が動かなくなった後も視線入力装置を使ってパソコンを操作していた)、以前の生活を振り返り、現状に絶望したかと思うと新薬に期待を寄せ、ときには同じ病の人を励まし、と自分なりに深く考えながら闘病していたことがうかがえる。
安楽死への思いが強かったことは確かだが、一貫してカネのことしか考えていなかった医師たちとはかなりの乖離がある。
今回の2人の容疑者についての報道が行われれば行われるほど、世間の人の医師についてのイメージは悪くなるばかりだ。
新型コロナウイルスとの闘いで世界的には医療従事者への敬意が高まっている中、医師が高齢者や難病の患者を「ゾンビ」などと呼んで安楽死を肯定し、軽々しく実行したとなれば、一般の人たちは裏切られた気持ちになるだろう。
また一部では、「結局、医者なんてカネのことしか考えてないんだ」と、彼らが医師全般を代表する存在であるかのように語る声もある。
もちろん、日本では膨れ上がる医療費が国の財政を圧迫していることは確かだし、コロナの影響で収入が大幅ダウンした医療機関ではお金の問題は死活問題だ。
医師個人がサイドビジネスをしたり投資で資産を増やしたりするのも、いまや常識になりつつある。「医師たるもの、カネのことなんか考えるな」とは誰も思っていない。
変化を捉えながら基本に立ち返るべき
とはいえ、今回のコロナ禍でも明らかになったように、社会からの医療従事者への期待は大きい。
「どんなときでも私たちの命を守ってくれるのはやっぱり医師」
「お金も大切だが健康や命がなければ何もできない。最後のよりどころは医療」
このようなピュアな期待も、人びとの心からは消えていなかったのだ。
それに大多数の医師たちは、紀元前4世紀のヒポクラテスの誓い「生涯を純粋と神聖を貫き、医術を行う」を胸のどこかに秘めていると私は信じている。ちなみにこの誓いには「依頼されても人を殺す薬を与えない」という一文もある。
私たち医療従事者は、新しい状況にも乗り遅れないようにしながら、いつもこの基本に立ち返るべきだ。
松尾芭蕉の俳論をまとめた『去来抄』には、「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」とある。
「不易流行」と呼ばれるこの理屈を現代語で言い換えると、「不変の真理を知らなければ基礎が確立せず、変化を知らなければ新たな進展がない」とごく平凡な言葉になってしまうのだが、芭蕉はさらに「その本は一つなり」、すなわち「正反対に見える不易と流行だが、それらの根本は一つ」とも言っている。
私はいつも大学1年生への授業でこの話をするのだが、これはどんな文化や学問、あるいは職業にも通じることであろう。
今回、容疑者・被告と呼ばれることになった2人は、自分たちが経済効率に関しては最先端の考え方や知識を持つ“流行”の医師とおごるあまり、「人の命は何より重い」という“不易”を完全に忘れ去ってしまったのだろう。
亡くなった女性の冥福を祈りながら、私たちにとっての大切な教訓としたい。
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