SHUCHU PUBLISHING

病院経営者のための会員制情報紙/集中出版株式会社

未来の会

日医を2つに割った会長選、団結願う横倉氏の思い届かず

日医を2つに割った会長選、団結願う横倉氏の思い届かず
期待の切れ味鋭い物言いを封印する中川氏のジレンマ

 「勝って次にバトンタッチするつもりだったのですが、負けてしまい申し訳ございません」。

 7月14日夕、退任のあいさつで首相官邸を訪れた日本医師会(日医)の横倉義武前会長は、盟友の安倍晋三首相にお詫びをして頭を下げた。安倍首相からは「いやいや、ご苦労さまでした」と、4期8年間にわたり医療界のトップとして激務を全うした事へのねぎらいの言葉が送られた。

 日医を二分して繰り広げられた会長選は、安倍首相をはじめとする政治と日医の距離感を改めて問うものでもあった。横倉氏は若手議員の頃から親交のある安倍首相とのパイプを最大限に生かして、医師らの技術料や人件費にあたる診療報酬本体部分のプラス改定等を勝ち取ってきたが、それは「日医として通すべき話を通さない」といった政治との〝なれ合い〟とも指摘される手法だったからだ。

 接戦を勝ち抜いた中川俊男会長は舌鋒の鋭さで知られ、「どんな圧力にも屈しない」(中川氏)姿勢が評価された。高齢化の進行や医療の高度化に伴い社会保障費の膨張が止まらない中、医療界は常に財政制約を強いられ、「横倉日医」下でも少しずつ不満が積み上がっていた。

 新型コロナウイルス感染拡大はそれに追い打ちをかけた。患者減で経営が急速に悪化する一方、強硬に反対してきたオンライン診療が全面的に解禁される等、会員にとって看過出来ない動きが続いた。会長選が迫り「中川氏なら筋を通してくれる」(地方医師会幹部)といった声が全国各地で聞こえるようになっていた。

政治介入」が横倉氏への攻撃材料に

 今回の選挙戦では、横倉氏の「政治との近さ」が大きな争点となった。公示直前の5月末に「横倉氏が勇退の意思を固めた」との一部報道が流れると、政界からの横倉氏引き留めの動きが表面化。同じ福岡が地元の麻生太郎・副総理兼財務相からは「こんな大変な時にあんたが会長をやらないでどうするんだ」との電話が横倉氏のもとに入った他、自民党厚生労働族を中心に地元医師会への働き掛けが相次いだ。

 橋本岳・厚労副大臣は岡山県医師会の松山正春会長に「補正予算の額が減らされたから横倉氏は辞めるのか。もしそうなら今からでも少し増やせる」との〝裏交渉〟を申し入れたという。

 こうした政治家の行動は日医内に漏れ伝わり、中川陣営は格好の攻撃材料として問題視。陣営の集会では出席した地方医師会幹部らが、しきりに「政治介入だ」と批判した。

 会長選に政治介入は常に付きまとう。2006年の会長選では、自民党のバックアップを受けた唐澤祥人氏が、当時の小泉純一郎政権に是々非々で臨んでいた現職の植松治雄氏を破り、日医内に禍根を残した。その唐澤氏も民主党政権になると露骨に冷遇され、10年の会長選で民主党と良好な関係を築いていた原中勝征氏に敗れた。

 日本の医療は国民皆保険が基本で巨額の公費が投入されている事から、日医は予算を差配する政治との付き合いが避けられないが、政治に翻弄される日医を毛嫌いする会員も少なくない。「医師会がいかに国民のために活動しているか分かれば診療報酬は後からついてくる。政治の力に頼らずに危機に立ち向かおう」(東京都医師会の尾﨑治夫会長)といった中川陣営の威勢の良い訴えは予想以上に日医内に浸透した。

 事前には「横倉氏が出馬すれば、いくら準備期間が少なくても、圧倒的な実績から余裕で勝てる」(大手紙キャップ)との見方が多かったが、ふたを開けてみると、この2年間、地道に地方回りを続けていた中川氏への支持が広がっていた事が判明。中川陣営関係者は「中川氏は、横倉陣営とみられる地方医師会の支持を得るため、趣味のマラソンを生かし、わざわざ地元で開かれる大会に出場して地方重視をアピールしていた」と明かす。公示後の票読みでは最後まで「接戦」との分析が続いた。

 こうした日医を真っ二つにする状況に危機感を抱いたのは横倉氏だ。「自分が勝つにしろ負けるにしろ、正々堂々とした戦いで日医を強くするために選挙に出る」とギリギリの決断をした横倉氏だが、その思いとは裏腹に、選挙戦が進むにつれて日医内の亀裂は深まるばかり。横倉氏も内心、中川氏には「新型コロナ対応に本腰を入れないで、裏で選挙運動ばかりしていた」との不信感を募らせていた。ただ、それを横倉氏本人が表に出す事はなかった。中川氏の個人攻撃をすれば日医の分裂が決定的になるからだった。

 一部メディアは「2度も『中川禅譲』を口にしたのに翻意したのは義がない」等と執拗に横倉氏を糾弾したが、その一方で横倉氏は選挙戦中盤に中川氏批判の怪文書が出回った時に自身の関与を否定し続けた。

わずか17票差の決着で尾を引く怨念

 その結果が17票差の決着。わずか9人の動向次第で結果は真逆になる可能性があった事から、横倉陣営内には「内部対立を抱えていた広島を中川陣営に持っていかれたのが大きかった」と悔しがる声も上がった。横倉氏自身、新型コロナ対応に忙殺されて地方を回る事がほとんど出来ず、選挙戦の最終盤に2県しか訪問する事が出来なかった。

 会長選が終わった6月27日の夕方、横倉氏はJR東京駅構内にある東京ステーションホテルの宴会場で、少数の親しい陣営関係者だけを集めてささやかな慰労会を開いた。横倉執行部の一員だった幹部が「もう少し一緒に仕事がしたかった」と涙を流す場面も見られたが、横倉氏は何か吹っ切れたように終始笑顔で場を和ませた。

 あいさつを「明るく楽しい反省会にさせていただきます」と切り出した横倉氏は、選挙直後に妻と2人の息子の4人で明治神宮を訪れ、副会長時代から続いた10年間の東京生活を無事終える事が出来たお礼を伝えたと報告。その上で「今やはり医師会は割れてはいかん。新しい中川執行部に皆で協力し、医師会を少しでも強くしていく事が重要だ」と訴えた。中川氏についても「かなり人の好き嫌いが激しいが、自分からもそこは十分注意をしているので、改善されればと思っている」と〝親心〟を示したのだった。

 しかし、横倉陣営の幹部には割り切れない思いが残っていた。選対本部長を務めた福岡県医師会の松田峻一良会長は、無投票当選していた日医理事のポストを辞退。慰労会に出席した地方医師会幹部も「中川執行部には今後2年間、一切協力しない」と憤懣やるかたない口調で言い切った。中川氏は横倉氏に「名誉会長」のポストを打診したが、横倉氏も死に物狂いで一緒に戦った周囲の気持ちに配慮し、明確な返答が出来ずにいる。

 中川氏も日医の団結を願う横倉氏の気持ちを酌んで、会長就任後は穏当な発言を続けている。記者会見でも事前に準備した紙を読み上げる事がしばしばだ。しかし、中川氏を支持した会員の期待は切れ味鋭い物言い。中川氏はそのジレンマに苦しんでいる。

 

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)

COMMENT ON FACEBOOK

Return Top