日医内外で衆目が一致する「次の有力候補者」が不在
「今日のこの事務所開き、『明るく楽しい』がテーマだよ!と言っておりますので、ぜひよろしくお願いします」
6月14日午後、日本医師会(日医)の横倉義武会長が東京駅日本橋口そばの貸会議室で開かれた会長選の選挙対策本部事務所開きでおどけ気味にこう述べると、会場はどっと笑いに包まれた。会を二分する中川俊男副会長との一騎打ちという険悪ムードになりがちな戦いに、しこりを残さぬよう気配りを欠かさない横倉氏の懐の深さを示す一幕だった。いったんは中川氏への〝禅譲〟も模索した横倉氏にとって、会長選で組織を弱体化させないという事が至上命題となっていた。
会長選が混迷した発端は新型コロナウイルスの感染拡大だ。横倉氏は昨年8月末の九州医師会連合会の会合で、会長選に向け事実上の5選出馬を表明していたが、今年に入ってから新型コロナ対応を連日続ける中で、「国民が大変な時に全国の医師が選挙をしている場合ではない」との思いを強め、出馬見送りの検討を始めた。
自称「横倉会長の右腕」の中川氏はこの2年間、次期会長選出馬を前提に副会長職には本腰を入れず、地方を行脚しながら〝選挙運動〟にばかり力を注いでいた。そんな中川氏を横目で見ていた横倉氏は、自分が会長選に出馬すれば必ず中川氏との選挙戦になるのは必至となる事から、自身の進退を慎重に判断せざるを得なかったのだ。
横倉氏出馬の判断基準は中川氏の力量
中川氏は日医内でも希代の論客として知られ、常任理事を2期4年、副会長を5期10年務めてきた実力者だ。その攻撃力の高さは日医にとっても頼もしいものだが、一方で日医内外での軋轢は絶えず、敵が多い事でも有名だった。日医の会長ともなれば、これまでの強気の中川流では限界があるともみられていた。横倉氏が出馬可否の一番の判断基準にしたのは、中川氏が選挙までに会長にふさわしく日医を1つにまとめる力量を得ているかどうかだった。
関係者によると、そんな悩みを深めていた横倉氏に早くから強く勇退を勧めたのは埼玉県医師会の金井忠男会長だといわれる。横倉氏の相談相手の1人だった金井氏は、中川氏ともひそかに連携した上で、横倉氏に「ここで日医が権力闘争をすれば国民の信頼を失う。北海道や東北等に支持を広げている中川氏に譲り、名誉会長として中川氏を支えてほしい」と進言。横倉氏も3月下旬に中川氏と会食し、「大人になってきている」と感じて中川氏への禅譲を受け入れかけたが、周囲から強い慰留もあり、その時は結論を出さなかったという。
横倉氏が判断を保留した一因が5月28日に予定されていた大阪府医師会の会長選の動向だった。府医内では年明けから横倉シンパの茂松茂人会長に対する不満が表面化。横倉氏とそりの合わない府医出身の松原謙二・日医副会長が首謀者といわれ、横倉氏も大票田の大阪で茂松氏を通じて自身への支持が得られないようだったら潔く引退しようと考えていた。結果は選挙1週間前の届け出締め切り段階で、茂松氏の無投票再選が決定。府医会長の座を狙っていた松原氏は何も出来ないままで、これで横倉氏は会長選出馬にぐっと傾くものとみられていた。
ここで再び登場するのが金井氏だ。改めて5月25日に横倉氏と面会し、選挙戦を避けるために勇退すべきだと主張。さらに翌日には新型コロナ対策で連携してきた東京都医師会の尾崎治夫会長も加わり、電話で「もう十分仕事をした」として引退を強く勧めてきたのだ。尾崎氏にまで引退を勧告された横倉氏は、さすがに弱気になり、不出馬の可能性が高まっている事を周囲に伝えるまで追い込まれた。
ただ、どうしても払拭出来ない不安が、中川氏が後任で本当に大丈夫かという事だった。横倉氏は28日に一部メディアで「勇退」が報じられると、最終決定していない事を強調しつつ、報道を利用し、6月1日の会長選の公示までに、中川氏が日医会員や業界関係者らから自分の後継者として受け入れられているかを探る事にした。
その結果は、想像以上の翻意を促す声と中川氏に対する強い不平や不満だった。期待にかなう徳が積めていなかった中川氏に対し、「このまま禅譲したら日医は分裂して弱体化してしまう」。そう判断した横倉氏は、公示前日の5月31日、地元福岡の有力支援者らと協議し、土壇場で会長選に出馬する事を決めた。中川氏が新会長になるにしても、選挙を経なければ自分の支持者も納得出来ないと考えたのだ。
日医内に横たわる「対立」を露呈
一方の中川氏にとっては、横倉氏から「右腕」として〝免許皆伝〟されたとほぼ確信していた中での急転直下のダメ出しだった。6月1日に東京都内で開いた出馬表明の記者会見では「私は横倉会長の本流の後継者だ」と何度も強調した上で、今年に入り横倉氏から2度も直接禅譲をにおわされたのにひっくり返されたと明かし、「勝手に思い込んだわけではない」「私は2年間待ったんです」と恨み節を重ねた。
会長選は日医を真っ二つにする戦いに発展し、横倉氏は西日本を、中川氏は東日本を中心に支持を固め、新型コロナ禍で一般の国民から白い目で見られながらも、がっぷり四つの選挙戦が繰り広げられる事になった。挑戦者の中川氏は、その鋭い刃を横倉陣営に向け、政策論争は不利とみて、徹底的に水面下の多数派工作を展開。穏当な戦いを望んでいた横倉氏も応戦せざるを得ず、新型コロナ感染拡大に配慮して当初は予定していなかった東京の選対事務所を急遽設置し、中川陣営の切り崩しに奔走する事になった。
組織の弱体化を避けたかった横倉氏の意思に反して、日医内に横たわる対立を露呈させた今回の会長選。横倉、中川両陣営は双方とも深い傷を負った格好で、元ラガーメンの横倉氏が期待した「戦い終えたらノーサイド」との精神とは程遠くなってしまった。それは2年後の会長選にも影響を及ぼす事になる。日医内外で衆目が一致する次の有力候補者がいないという事を意味するからだ。自民党厚生労働族の中堅議員は「長い安定の後には不安定の時代が来る」と指摘する。
ここからの2年間、日医を取り巻く状況はより厳しいものになる事が予想されている。2022年度以降、団塊世代が後期高齢者になり始めるため社会保障費が急増し、医療や介護のカットが一層求められる。その一方で、新型コロナを受けた医療体制強化の議論も必要で、日医は押したり引いたり絶妙なバランスで立ち振る舞わなければならない。最終的には大幅譲歩の厳しい局面に立たされる可能性もある。
そうした苦しい状況に陥る日医を力強くリードしていける次の会長候補がいるのかどうか。この2年間は、それを模索する2年間になるともいえそうだ。
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