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2度目のがんは5年生存率1割の神経膠芽腫

2度目のがんは5年生存率1割の神経膠芽腫

清水祥史(しみず・あきふみ)1966年神奈川県生まれ。北里大学医学部卒業。同大学病院救命救急センター研修医。熱川温泉病院、箱根リハビリテーション病院、町田慶泉病院などを経て、今年4月から現職。


湘北病院(神奈川県相模原市)
リハビリテーション科専門医
清水 祥史/㊦

 救急外科医を志望していた清水祥史は、研修医2年目に悪性腫瘍の軟骨肉腫を発症。復帰後は、リハビリテーション科医師を目指して、母校の北里大学病院で研修を再開することした。

 術後感染により入院は1年半に及んだ。骨盤の半分を切除したまま人工関節を外したことで車椅子生活になり、身体障害者2級と認定された。退院後、車椅子で町に出てみると、日本のバリアフリーはまだまだ不十分だと感じた。車椅子で外出している人をほとんど見かけなかった。ターミナル駅でもエレベーターが使えるのはデパートが営業している時間帯だけ、階段やスロープも車椅子やベビーカーで上りにくいものが多い。

リハビリテーション科医として20年を過ごす

 生涯にわたりハンディキャップを背負うことは苦痛ではあるが、慣れるより他ない。それより、生命の危険がある腫瘍を取り切れたという安堵感は大きかった。軟骨腫瘍には、いわゆる腫瘍マーカーはないが、代わりに骨形成マーカーである「骨型アルカリフォスファターゼ」を定期的に測定していた。再発の兆しもないまま、無事に2年の研修期間を終えた。

 リハビリテーション科医として研鑽を積み、1人立ちする自信も蓄えられ、1998年から伊豆韮山温泉病院(静岡県伊豆の国市)リハビリテーション部長として赴任することになった。

 整形外科のリハビリが多かった大学病院とは異なり、対象は脳卒中後の患者が多く、熱心に診療に取り組んだ。闘病から5年、10年と、多忙な毎日の中で年月が過ぎっていった。しかし、再発のリスクが消えたわけではない。過去の論文では、何十年も経ってから肺に転移した症例の報告も目にしており、心の片隅には小さいながらいつも不安を抱えていた。

 勤務先までは、車椅子でも運転できる特装車で通ったが、改めて運転免許試験場に行って審査を受ける必要があった。こうした経験は、自分の患者への助言としても役に立った。

 その後、埼玉県内のリハビリテーション専門病院を経て、2003年から熱川温泉病院(静岡県賀茂郡東伊豆町)のリハビリテーション診療部長となり、再び伊豆方面に着任していた。

 2010年10月のある朝、立ってたばこを吸っている最中にふらつきを覚え、ソファーに倒れ込んだ。軟骨肉腫の後、一時は禁煙に努めていたが、ストレスから再開していた。不意打ちを食らった清水は、中枢神経に異常が起きていると確信した。医師としてただならない状況だと悟り、翌日勤務先でCT検査を受けた。

 病院長は脳神経外科が専門だった。撮影したCT画像は、右の小脳に明らかな異常が認められ、清水はそのまま入院することになった。悪性の脳腫瘍の可能性が強く疑われた。膠芽腫は、脳の神経細胞を支えている神経膠細胞が腫瘍化した神経膠腫の一種で、大脳に発生して周辺部に染み込むように広がっていく。そして、神経膠腫の中で40%と最も頻度が高く、悪性度も最も高く予後が悪いことが知られている。

 清水が北里大学出身であることから、院長は母校が良かろうと、その日のうちに同大の脳神経外科と話を付けてくれた。翌日には、北里大学病院(神奈川県相模原市)に搬送してもらい、入院となった。清水は40歳台前半であるにもかわらず、がんは1度ならず2度も試練を与えたのだ。それでも自分の運命を呪うことはなく、比較的淡々と事実を受け止めた。

 膠芽腫の5年生存率は1割程度であるという。予後という点では軟骨肉腫以上に深刻な病気だが、人生経験の差なのか、医師として過ごした年月の重みなのか、取り乱すことはなかった。

 母校の病院には、卒業生が大勢勤めている。清水の主治医となったのも、そんな同期の1人だった。患者と医師、異なる立場での久しぶりの再会だったが、顔見知りであることで気安く話せ、一方で専門性が頼もしいと感じられた。

 膠芽腫は腫瘍増大の進行が早いこともあり、入院から3日後に、手術の日を迎えた。開頭して、浸潤した腫瘍を残さず取り切るという難手術だが、執刀した主治医から、見える範囲は取り切れたと説明を受けた。

 しかし、治療はこれで終わりではない。残っている目に見えない腫瘍を叩くため、放射線治療と経口抗がん剤テモゾロマイド内服による化学療法を併用し続けなくてはならない。術後も4カ月余り治療が続き、退院したのは、2011年2月だった。

 自宅での療養を経て、4月から熱川温泉病院にリハビリテーション科医として復職した。しばらくは維持療法として、テモゾロマイド投与を続けながら、長期的な経過を診ていかなくてはならないため、北里病院に近い勤務先を探すことになった。放射線外来で経過を観察しながら、テモゾロマイド内服は2017年4月まで続いた。幸い、薬の副作用は便秘程度の軽いもので済んだ。

 妻は献身的に清水の日常生活を支えてくれた。「医療職ではないので、脳腫瘍と聞かされて不安は大きかったかもしれないが、いつも明るく接してくれたのは救いだった」。そして、時には手厳しかった。膠芽腫を発症して入院するまで、清水は1日1箱たばこを吸っていたが、「吸ったら離婚よ」と強く禁煙を迫った。体調を気遣い、肉好きの清水に野菜を食べさせようと献立を工夫する。子どもはいないが、仲の良い夫婦だ。

日常診療は不自由なくこなせる

 車椅子であっても左足だけで片足立ちできるし、気管内挿管などの処置も施すことができた。日常診療は、ほとんど不自由を感じることなくこなせている。しかし、五体満足でなく車椅子の医師であることで、何となく職場に居づらい雰囲気が生まれることもあり、その後、清水は頻繁に職場を移り続けた。

 患者には、外観ですぐ覚えてもらえる。

 「車椅子の医師からリハビリを指導されていると、患者も自分も逃げられないから頑張ろうと考えるようで、それが自分の強みになっているかもしれない」

 2度の病を経て、反省したこともある。「自分は上から目線だった」と。

 手術から10年目を迎えても、半年に1度のMRI検査を続けている。めまいなどがあると、再発が脳裏をかすめるが、幸いそうした徴候はない。

 膠芽腫と診断されて10年生存した症例はほとんどないとされるほど、予後は厳しい。その節目が近づいてきた。「大勢の人に支えられて、診療が続けられている。自分の病気についてはデータを揃えているので、学会で報告できるね」。どこまでも楽観的に病気と向き合っている。 (敬称略)

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