「教育格差」とは出身家庭や出身地域という初期条件である「生まれ」によって、学力や学歴が異なることを意味する。日本では2000年代以降に注目されたが、実は戦後ずっと相対的な教育格差があった。「生まれ」→「最終学歴」→「社会的地位」という関連がある日本は、人々の無限の可能性という資源を十分に活用できていない「緩やかな身分社会」だという。教育社会学者の松岡亮二氏に詳しく話を聞いた。
——日本には教育格差があるのですね。
松岡 日本全体を対象としたデータを分析すると明らかに存在します。例えば、2015年時点の20代男性は、父親が大卒だと約80%が大卒になっていますが、父親が非大卒の場合は、大卒になったのは35%ほどでした。女性や他の年齢層について調べても、同様の傾向です。さらに出身地域による教育格差も存在します。15歳の時に住んでいた都道府県が3大都市圏(東京、千葉、神奈川、埼玉、愛知、京都、大阪、兵庫)の人や、市町村が大都市だった人達は、そうでない人と比べて大卒割合が高いことが分かっています。子どもの出身家庭・地域による格差は未就学段階から存在していますし、ほとんどの子どもが通う公立小学校にも、学校間にはっきりした格差があります。大卒の親の割合が高い学校ほど、生徒の平均的な学力が高い傾向があるのです。中学にも学校間格差はあり、親の大卒割合が高い中学ほど、中学2年時点で大学進学を期待している生徒の割合が高く、学力も通塾率も高い傾向があります。高校では、入学の難易度を示す偏差値が高いほど、生徒の家庭の社会経済的地位が高いことが明らかになっています。
——教育格差は最近広がったように思っている人は少なくないのでは?
松岡 昔は機会が均等に開かれていて、特に終戦後は皆が貧乏だったから、その中で努力した人が大卒になった、などと言われたりします。しかし、データを見る限り、生まれ育った家庭や出身地域による教育格差は、1950年代から2010年代まで多少の変動はあってもずっと存在してきています。最近大きく拡大しているとか、特に小泉構造改革以降ひどくなったという言説がありますが、実はずっと以前から続いているのです。
——では、「格差が広がった」と言われるのはなぜですか。
松岡 研究者は以前から教育格差があることを知っていましたが、多くの人達は関心がなかったのでしょう。特に70年代や80年代のように経済が成長していた時代だと、学者達が格差を指摘しても、人々の実感と乖離していたのかもしれません。認識が変わったとされるのは2000年代です。多くの人々にとっても、社会全体が豊かになっていく時代であれば気にならなかった教育格差という現状を実感することが増えたのだと思います。
——教育格差というのは、どこの国にもあるのでしょうか。
松岡 近代になって「生まれ」による格差をなくそうとしてきたわけですが、その理想をそのまま実現できた社会はないのではないでしょうか。フィンランドなどは大学の学費が無料なので、ある程度理想に近いとは言えます。しかし、フィンランドの15歳にどの教育段階まで進学したいのか尋ねると、親の社会経済的地位によって進学希望に大きな差があります。日本の教育格差は先進国の中では平均的で、特に格差が大きいわけでも小さいわけでもありません。凡庸な教育格差社会です。
人的資源を活かしきれない社会
——教育格差は社会にどのようなマイナスをもたらしますか。
松岡 地方出身だったり、育った家庭の社会経済的地位が低かったりすると、自分の持っている可能性に気づかないまま高校を卒業し、目に入る範囲の仕事を選んでしまいがちです。そして、産業構造の変化などによって収入が低くなったとしても、自分にはこの程度のことしかできない、自分の人生はこんなもんだ、と思い込んでいたりします。つまり、本人が選ぶ事のできない「生まれ」によって、何者にでもなれる可能性が制限されてしまっているのです。そういう意味で、この国は人的資源を十分に活用できているとは言えません。多くの人々が潜在的に持っている無限の可能性を活かしきれていない非効率な社会といえます。
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