中国で民営病院を作れるようになったのはちょうど20年前のことだ。現在、中国屈指の民営病院グループ「瑞慈医療集団」を率いる方宜新氏は、2000年に上海近郊の南通市に南通瑞慈病院を設立した後、検診センター、産婦人科・小児科病院、養老介護施設とビジネスの領域を広げ、グループを成長させてきた。今後、日本の医療機関と連携し、新たな医療ビジネスに取り組んでいきたいと考えている。
——中国の医療は現在どのような状況ですか。
方 改革解放から数十年が経過し、経済が発展してきた事もあって、国民の収入も大分上がってきました。20〜30年前は、そもそも病院が足りませんでしたし、医薬品も不足している状況でしたが、現在はそういった事はありません。何かが足りなくて困っているという状況は脱して、現在はもっと医療のレベルを上げて欲しいというのが、第一のニーズになっています。人々はより高いレベルの医療を求めています。
——医師になった理由は?
方 文化大革命の影響で全国統一試験は長い間行われていませんでした、私が試験を受ける年齢になった時、タイミング良く全国統一試験が復活し、大学に進学が出来るようになりました。当時の若い人達は大学の事をよく知らなかったのですが、母が「家に1人医者がいるといい」と言ってくれたので、医学部に入る事にしました。現在は中国でも医師の社会的地位は高く、収入も高いので、目指す人が多くなり、医学部進学は難しくなりましたが、あの時代はどこの大学に入るのも同じようなものでした。
——医師の仕事を辞めて起業したのは何故ですか。
方 大学を卒業して医師になったのが1986年で、92年に病院を退職しました。当時、民営病院は許されていませんでしたから、私が麻酔科医として働いていたのは公立病院です。あの頃の公立病院は人気がなくて、患者さんからはサービスが悪いと批判され、働いている医師からは収入が低いと嫌われていました。病院管理者も文句ばかり言っていました。公立病院はイメージが悪かったし、雰囲気も悪かったのです。私はその頃、患者さんから信頼され、医師達が気持ち良く働けて、管理者もやりがいを感じられるような病院を自分で作りたい、と思っていました。いつか民営病院を作れる時代が来ると信じて、まずは起業してお金を貯めようと思いました。それが病院を辞めた理由です。
いつか民営病院を作れると信じていた
——公立病院に勤務していた頃、例えばどのような事を経験されたのですか。
方 交通事故で怪我をした患者さんが、朝の5時に運ばれてきた事があります。当時、その病院には夜間当番と昼の当番があり、7時半に交代する事になっていました。その時、当番だった医師は、治療を始めると7時半を過ぎてしまうので、あの検査をしてくれ、この検査をしてくれと言って、ずるずる時間を引き伸ばし、7時半まで治療せずに待たせたのです。そういう事が実際によくありました。その時代の公立病院では、患者さん中心の医療ではなく、医師側の都合に合わせた医療が行われていたのです。ただ、仕方ない面もありました。患者さんがあまりにも多くて、医師達は皆疲労困憊の状態でした。本当はそうしたくないと思っていた人もいたはずですが、患者さんの事を考えた医療はなかなか出来なかったのです。
——病院を退職後、化粧品会社を作ったのは何か理由があるのですか。
方 公立病院はどこも経営が良くなかったため、何とか利益を出そうとして、私がいた病院では薬の生産を行っていました。昔は大病院が製薬工場を持ち、生産した薬を中小病院が買い取るという事が普通に行われていたのです。私がいた病院では皮膚科の外用薬等を作っていて、たまたま私はその部門の仕事にも関わっていたので、その経験が化粧品の開発に繋がったのです。
——南通瑞慈病院はどのように誕生したのですか。
方 1999年に政府から政策が公開され、民営病院を作ってもよい、という事になりました。ずっとやりたいと思っていた事が、いよいよ出来る事になったわけです。化粧品の会社は南通市にあり、成功していたので、市長に面会して民営病院を作りたいという話をしました。市長は大賛成してくれ、郊外の余っている土地を無償で譲渡するので、病院を是非、作って欲しいという話でした。それは嬉しかったのですが、土地の所有権に関して将来的な懸念を残さないように、安い価格でしたが、自分でお金を出して買い取る事にしました。病院開設に必要な費用は、化粧品会社で得たお金と銀行融資で賄いました。化粧品会社は現在もありますが、私は既に持ち株も手放していて、経営には関わっていません。
中国人の好みを考え1000床の病院に
——初めての民営病院を作るのに、いろいろなご苦労があったのでしょうね。
方 まず海外の病院を参考にしようと考えました。日本にも来て、東京大学や順天堂大学の附属病院など、いくつもの病院を見に行きました。当時は何の伝手もないので、1人の観光客として病院に行き、自分の目で見るだけです。日本だけでなく、シンガポールやオーストラリアの病院も見て、それを新しく作る病院に生かしました。それから、中国人の好みに合った病院にする事も大切だと考えていました。中国人は大きな病院を信頼する傾向があるので、新しく作る病院は大きい方がいい。そこで、南通市というそれほど大きくない市に、1000床の南通瑞慈病院を作ったわけです。20年前という時代を考えると、相当の迫力がありました。
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