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未来の会

がんは立ち止まって振り返る余裕をくれた

がんは立ち止まって振り返る余裕をくれた

船戸崇史 (ふなと・たかし)1959年岐阜県生まれ。83年愛知医科大医学部卒業、岐阜大第一外科入局。西美濃厚生病院、羽鳥市民病院、美濃市立美濃病院などを経て、94年開業。西洋医学に東洋医学、補完代替医療を取り入れて診療。看取りも含め在宅医療に力を注ぐ。


医療法人社団崇仁会 
船戸クリニック(岐阜県養老郡養老町)院長
船戸崇史/㊦

 2007年、たまたま受けた人間ドックで直径6cm大の腎細胞がんが見つかった船戸崇史は、同僚の泌尿科医の診断に駄目押しされて観念した。「何で俺がこんな目に……これでおしまいか」という思いも脳裏をよぎった。消化器外科医として医師のキャリアをスタートさせ、数多くの患者を手術してきた。「今度はお前が手術台に乗って、一遍切られてみろ」と、内なる声が囁いていた。小学生の時に扁桃腺を治療して以来の手術だった。決断すると、「全部を体験尽くしたろう」と肝が据わった。

 がんと言えば、「死」のイメージが付きまとう深刻な病であることは間違いない。近隣の病院に入院し、風評が出てクリニックの経営に影響を来すことは避けなければならなかった。となると、心穏やかに治療が受けられそうなのは、慣れ親しんだ母校、愛知医科大学の附属病院(愛知県長久手市)だ。何かと無理も利きそうだった。

3カ月の待機期間を経て開腹手術を選択

 泌尿器科教授となっていた先輩医師に連絡を取って、早速受診した。気のおけない関係であることは安心材料だ。すぐにでも手術を受けたいという船戸の希望に対し、「予約者の順番待ちで、3カ月先でないとできない」という返答で、落胆した。ステージは早期の1Bと診断されていたが、外科医の経験から、CT画像だけではリンパ節転移の有無は判別できないことも分かっていた。長い年月をかけて成長したがんが、3カ月で急に大きくなることはないだろうが少しでも広がらないようにと念じながら待機するよりない。

 クリニックの副院長である妻から、医大生の長男、高校生だった次男と長女には、早々に船戸の病名が伝えられていた。手術を待っている間も何の自覚症状もなく、何事もなかったように生活を続けていた。診療も従来通り行った。ただし、がんの原因について、あれこれと思い巡らせた。母は白血病で亡くなり、がんの人は父方にも母方にもいたが、特段多いとは言えなかった。

 生活習慣を振り返り、発症後は努めて睡眠を取ることにした。食事は、医師である妻が日頃から人一倍気を遣っていたが、さらに念入りに徹底して塩分も管理するようになった。夜中に看取りなどで急に呼び出しがあるため、元々酒はたしなむ程度だった。また、医学生時代にたばこの味を覚えたが、クラブ活動で打ち込んでいた合気道に支障があるので、あっさりやめていた。1つ気になったのが、持病の頭痛のために毎日のように服用していた消炎鎮痛薬である。腎臓への負担を避けるため、使用をやめることにした。

 病院の都合で待機期間は4カ月に及んだ。2008年2月、いよいよ入院を控え、スタッフ達にも告げないわけにはいかない。職員を集めた朝礼の席で包み隠さず病状を話し、1カ月間は闘病に専念することを伝え、個人情報なので公言しないでほしいと頼んだ。院長がいなくなってしまうかもしれないと思った職員もいたはずだが、そのまま静かに受け止められた。留守中は医師達が交替で船戸の穴を埋めてくれることになった。

 執刀は馴染みの教授ではなく、部下である中堅医師が担当した。教授からは「昔と違って今は内視鏡下で小さい傷で手術ができるから、ラッキーだぞ」と言われたが、船戸はあえて開腹手術を希望した。大きな傷の手術を散々してきたのに、自分だけ小さな傷で済むことは許せない気持ちがあった。

 麻酔から目覚めると、腹部の傷から猛烈な痛みが襲い、開腹手術にしたことを後悔したが、もはや後の祭りだ。執刀医から、きれいに取り切れたと聞かされた。1日も早く回復したいと焦ったが、食が進まなかった。味覚が変わったのかと思ったが、病院食が口に合わなかったようで、こっそり差し入れてもらった寿司を堪能した。

 5日間の入院で退院し、自宅での療養に移った。腎臓がんの術後には、放射線治療も有効とされる抗がん剤もなく、補助治療は行わなかった。体力の回復を待ち、予定通り1カ月後に外来に復帰した。馴染みの患者から「死にかけとると聞いたが、案外元気そうやね」と言われ、情報が筒抜けであることに苦笑せざるを得なかった。 

がんと対峙し生き方を見つめ直す施設を開設

 がん発症後に大きく改まったのは睡眠習慣だ。以前は日が替わる前に就寝することはなかったが、6時間以上の睡眠を課すようになった。合気道の道場には毎週通っていたが、稽古後は運転途中に仮眠を挟むほど疲労困憊する。体の負担が大き過ぎると通うのをやめた。

 今も日常的な運動習慣となっているのが「五体投地」という仏教の礼拝法だ。立った姿勢から両膝、両肘、額を地面に伏して行うもので、米つきバッタのような礼拝を毎日108回繰り返す。

 妻は、公私のパートナーとして支え続けてくれた。万が一の場合、クリニックの運営や子ども達の教育や生活を考え、プレッシャーがかかっていたはずだが、そうした素振りは見せなかった。

 手術から数年、腹の調子が悪い、腰が痛いといった小さな支障があると、ひょっとしたら転移ではないかと怯えていたが、やがて一喜一憂することもなくなり、当たり前の日常が戻ってきた。

 診療上では、大きな変化があった。がん患者達が、船戸を“仲間”だと認めてくれたのだ。かつては、どんなに熱心に患者と向き合っても、「がん患者の気持ちは、がんにならないと分からない」と言われ続けた。がん発症後は船戸の口から、自分もがんに罹患したことを伝えることもある。

 船戸クリニックでは、西洋医学のみならず、東洋医学、ホリスティック医療を取り入れた統合医療など、がんに対して多様なアプローチを続けている。2018年1月、船戸は生まれ育った岐阜県関市洞戸に、「リボーン洞戸」と名付けた滞在型施設をオープンした。「がん予防滞在型リトリート」という新しいコンセプトに基づく施設で、外科医としての集大成に今取り組んでいる。未病である1次予防から再発予防、さらには進行予防まで、2週間滞在しながら、睡眠、食事、加温、運動、笑いが十分であるかをベースに、生き方を見つめ直す時間を持つ。本当の自分の姿に気付き、リボーン(新生・復活)を促す場だ。自由診療による「リボーン外来」も行っている。

 医師になる前に、船戸が思い描いていたイメージが2つある。1つが、難手術を次々とこなすブラックジャック。もう1つが、往診カバンを持って田んぼの畦道を自転車で駆け抜けている姿だ。外科医から在宅医療に転じ、その理想を2つとも果たすことができた。その延長でがん専門の医師としてできることを模索し続けている。

 「がんは敵ではない。もっと頑張らなければ、もっと我慢しなくてはと走っていた自分に、1回立ち止まって振り返る余裕を与えてくれた」

 2019年に還暦を迎えた。最近は、小学生などにもがんについて講演する機会も増えた。「がんになっても、普通に楽しい人生送っているという手本を見せていきたい」。 (敬称略)

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